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細川政元/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

明応の政変がエゲツねぇ!細川政元が10代将軍・足利義稙を追い払い、戦国時代が本格化

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歴史に出てくる「乱」とか「変」って勘弁して欲しいですよね。

【乱が失敗したクーデター】

【変が成功したクーデター】
なんてツイートが5年ほど前にバズっておりましたが、結論から申しますと【特に使い分けの法則はない】んです。

乱でも変でも、成功とか失敗の決まりはない。
どっちでも有り得る。結局、一つずつ理解&覚えていくしかないわけで、受験生にとってはかなり困った問題であります。

そんなわけで今回は「変」のお話。
室町時代の【明応の政変】を見てみたいと思います!

 

まずは足利将軍の系図をチェック!

明応の政変、まずは三行で説明しておきましょう。

・室町時代の明応二年(1493年)春
・管領・細川政元が
・十代将軍の足利義稙を引きずり下ろしたクーデター

最近では、戦国時代の始まりを【応仁の乱(1467~1477)】ではなく、この明応の政変だとする見方も強まっているぐらい、実は重要な出来事です。

意味合いとしては「クーデターが起きました」だけで済んでしまうのですが、そこは何かとマイナス要素が連鎖する室町時代のことですから、経過を追えば追うほどツッコミどころがゴロゴロ出てきます。

まずは当時の政局から見ておきましょう。

10代将軍・足利義稙は、応仁の乱で西軍に擁立された足利義視(よしみ)の息子です。8代将軍・足利義政にとっての甥っ子であり、九代将軍・足利義尚にとってのイトコですね。

いったんその辺りの系図を見ておきましょう。

応仁の乱が西軍に不利な状態で終わったため、義視&義稙親子は美濃の守護・土岐成頼のもとへ落ち延びていきました。

しかし、九代将軍・義尚が長享三年(1489年)に若くして亡くなり、さらには兄弟もいなかったため、将軍の位がポッカリ空位。
「最も血筋の近い人物が将軍位を継承すべき」という考えにのっとって、義稙が京へ迎え入れられたのです。もちろん、父である義視も一緒に……。

と思ったら、ここで別の候補者が現れるという、新たな問題が出てきました。

 

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義視の息子である義稙はイヤなんだよ~

新たな候補者とは、足利義澄のこと。

義政や義視の兄である堀越公方・足利政知の息子で、京都の天龍寺香厳院主となっておりました。

まだ存命中だった義政や管領・細川政元からすると、義視は応仁の乱でドンパチしたばかりの相手ですから、その息子である義稙にはそう簡単に将軍位を渡したくない。
そんな理由から義澄が引っ張り出されたのです。
室町幕府って、中枢人物の野望が剥き出しですよね……(´・ω・`)

足利義稙木像/wikipediaより引用

彼らの父親は、政知・義政・義視という兄弟ですから、それぞれの息子たち義澄・義尚・義稙たちは全員イトコ同士の関係です。仲良くすりゃいいのに、権力がからむとそうはいかない。

しかもこのときは他の要因も関係してきました。
足利義政の正室・日野富子から見ると、足利義稙は、彼女の血縁で甥っ子(義稙の母が富子の妹)だったので、富子は義稙を強く推したのです。

そして、義尚亡き後、政務に復帰していた義政が延徳二年(1490年)正月に亡くなると、義視の出家などを条件として、義稙の十代将軍就任が決定。
富子のおかげで将軍職が決まったようなものなので、富子の発言力は依然として強いままでした。
そのため、本来、幕政を取り仕切る立場の細川政元や伊勢貞宗たちは、義視&義稙親子との対立を強めていきます。

貞宗は、前将軍の義尚を養育した人物でもあり、富子の信任も厚かったのですが……貞宗の父・伊勢貞親が富子や義稙と因縁がありまして。貞親は、義稙の父である義視殺害を進言したことがあったのです。結果、富子や義稙に睨まれ、そのせいか身を引いてます。

そして息子の貞宗も、義稙の将軍就任からほどなくして、政所頭人を辞任することになりました。
齢すでに40代半ばを過ぎていたため、年齢的に不自然ではありませんでした。

 

なんかあったら義澄を将軍にしちゃうからね!

しかし、富子のせいで話がこじれていきます。

「息子の義尚が住んでいた小川御所(小川殿)を義澄に譲渡する」
なんてコトを言い出したのです。

義尚は短い在職期間ではありましたが、れっきとした九代将軍です。
その屋敷を受け継ぐということは、「次はこの人が将軍です!」と暗に示すことになります。

血筋からして、義澄が将軍になる可能性はなくもない……というところですが、このタイミングでこれをやるということは、富子が次のような意思表示位したことを意味します。

「義稙に何か落ち度があったら、すぐ引きずり下ろして義澄を将軍にしちゃうからね♪」

なんだか富子の行動もワケわかりませんが、これに対して義稙ではなく父の義視が大激怒。
さほど時間の経たないうちに富子に無断で小川御所を壊し、土地を差し押さえてしまいました。

応仁の乱(1467~1477)の頃から最悪だった義視と富子の関係は、これで完全に修復不可能になりました。

 

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なぜか六角征伐に反対する政元

義視は延徳三年(1491年)の年始に亡くなり、この流れで富子と義稙の関係は悪いまま固定されます。
義稙は義稙で、前管領・畠山政長に接近したりして、いずれ対立は避けられそうになく……そんな緊張を和らげようとしたのか。それとは別に「こうすべき」と考えたのか。

義稙は、義尚の政策を引き継ぐような動きをしはじめます。

まずは近畿における国一揆収拾のため、父が亡くなったその年に、近江の六角討伐へ乗り出します。これは義尚がやり残したことでもありました。

しかし、これによってまた別の対立が強まってしまうから室町幕府ってややこしや。

管領・細川政元は、六角征伐には反対をしておりました。
義尚存命中にそんなことはなかったので、このタイミングでいきなり反対し始める理由がよくわかりません。

義稙が「六角征伐再開するからお前も参加しろ」といい出したとき、政元は修験道修行を兼ねた東国旅行をしていたところだったので「あの若造に邪魔された!」とでも思ったのでしょうか。その修験道狂いが後々自分の身も滅ぼすんですが。

とはいえ、この時点で政元一人では将軍の意向を覆せる状態ではありません。

多くの大名が参加し、政元も名代として家臣の安富元家を参加させます。
元家は六角軍に大敗してしまったため、義稙に『普段から口うるさいくせに弱々じゃねーか。細川氏なんていらなくね?』と思われ、他の大名を頼るキッカケを作らせてしまうのでした。

 

政長vs基家 畠山の内紛に介入したところ

戦いは、幕府軍が無事に勝利。
六角行高は近江から甲賀へ、甲賀から伊勢へ落ち延びます。

徐々に不穏になっていく義稙と政元の関係は、その二年後、義稙が【河内の畠山基家(義豊)討伐命令】を出したときにも続いていました。

畠山に対する討伐命令が出た理由は、例によってお家騒動。
応仁の乱の発端となった争いが未だに収まっておらず、畠山政長の依頼に応じて、畠山基家を叩きにいったのです。

この時点で既に20年以上も家督争いをしているわけで、よくまぁ、家そのものが滅びないもんだなぁと不思議レベルですわな。というか、すでに、何のために争ってるのかわかってなさそうです。

そんな畠山基家討伐に、政元が反対した理由はゲスいものです。

畠山氏が細川氏と同じ「三管領」に数えられているからです。
つまり『せっかくライバルがお家騒動で潰れそうなのに、討伐軍を派遣して、畠山の争いを鎮静化させるんじゃねぇ!』というワケです。

義稙は畠山政長に肩入れして、畠山を味方に引き入れる気でした。

それで畠山がチカラでもつけたら、細川政元にしてみれば由々しき事態であります。
ただ、細川家でも跡継ぎ問題があって、人のこと言ってる場合か?状態なんですけど。

そんな政元の考えがわかりきっていたのか。
義稙は予定通り畠山討伐を行いました。

順調に勝ち進んでいたところ、ここで政元が大胆なことをし始めます。

「畠山氏の再統一を避けるため、討伐対象の基家と結託する」
という、みみっちい嫌がらせみたいなことをやってのけたのです。

いや、そんな簡単なものじゃないですね。

別の言い方にしますと
「足利氏の流れを汲む名家の人が、幕府ナンバー2の座を維持するため、幕府トップの将軍に逆らう」
という宣言をしたようなものです。

しかも政元は、「長期的な視野がない割に頭がよく、行動を起こすときは迅速」というタイプでした。

彼はすぐさま、義稙に不満を抱き始めた伊勢貞宗や、赤松政則などの大名、実質的には女将軍状態の日野富子まで味方につけるのです。
自分を高めるんじゃなくて、誰かを引きずり下ろそうとするって何なの……って現代も本質的には変わりませんかね(´・ω・`)

かくして明応二年(1493年)4月22日、政元はついにクーデターを決行するのでした。

 

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義稙の返り咲きを封じるため徹底的に!

一般的にクーデターとは、対象を粛清するなり、軍隊を掌握することをイメージするかもしれません。

しかしこのとき、その対象である足利義稙は河内におりましたので、嘉吉の乱のように「将軍をブッコロして終わり!」とはなりません。
代わりに政元は、神輿候補(将軍候補)の足利義澄を保護した上で、義稙派の人物の屋敷や、義稙の弟たちが僧侶となっていたお寺を襲撃・破壊して回りました。この流れで義稙の弟・慈照院周嘉(じしょういんしゅうか)なども殺害されています。

要するに、「義稙の留守中、その味方となりえる人物をMINAGOROSHIにして、後ろ盾や後継者を全て封じた」のですね。
日本史上でも稀に見るぐう鬼畜ぶりと言わざるを得ません。

当時の記録では「富子が直接指揮を取り、政元にクーデターを起こさせた」というようなことも書かれていますが、あったとしても「富子がGOサインを出した」ぐらいでは?と思います。
富子がそんな冷酷な指示を出せる人物ならば、応仁の乱が始まる前にやっていたような気もします。

彼女は意外に人の命は取っていない(少なくとも直接は)。それでも「主導した」と書かれてしまったのは、それまでの行いが悪すぎて、世間的なイメージとして「あの女ならやりかねない」という固定観念があったからなのかもしれません。

そして政元は、上記のヒャッハーを実行したその日のうちに「義稙を廃して義澄を11代将軍に擁立する」と公表し、一週間後には正式に将軍位を継承させました。

足利義澄/wikipediaより引用

 

実は厭戦気分が漂っていた将軍様御一行

クーデターによって、諸大名や、室町幕府内の奉公衆(将軍直属の武官)・奉行衆(将軍直属の文官)は当然大混乱です。

義稙に従軍して河内にいた大名らに対しても、伊勢貞宗から「もう将軍は義澄様なので、直ちに従うように」という書状が送られました。

これでどうなったか?

実はこの頃、河内の陣中では厭戦気分が漂っていました。
六角征伐からさほど時を置かずにまた動員されたので、兵糧をはじめとした戦費の負担が膨大なものになっていたのです。

一度ならともかく、二度も多大な出費を強制されれば、そりゃイヤにもなりますよね。この介入は将軍が音頭を取っているわけで、「もうちょっと空気読んでよ、上様」と思われても仕方のないことです。

そこに「クーデターしたんで、そこにいるその人はもう将軍じゃないよ^^」なんて知らせが届けば、まさに渡りに船というもの。
大名たちはほとんど全員が京へ戻り、義澄を戴きました。

つまり、義稙には味方がほとんどいなくなってしまったのです。
残ったのは、最初から親しくしていた畠山政長くらいで……。

まあ、もともとは畠山政長が足利義稙に懇願して河内征伐を始めさせたわけですから、ここで裏切ったら道理も何もなくなっちゃいますね。それでなくても政長は、政元(細川氏)とライバル関係だったわけですし。

この辺の展開や世情が伺えそうな動きをしている大名が二人いるので、簡単にご紹介しておきましょう。

 

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そのころ赤松と大内は……

一人は赤松政則です。

赤松氏は嘉吉の乱の首謀者として幕府に討伐されましたが、応仁の乱の前に傍流の赤松政則を当主として、細川勝元が主導する形で復興されていました。
これが応仁の乱の中心人物・山名宗全(持豊)と細川勝元が対立する原因の一つにもなっています。

赤松政則/wikipediaより引用

ともかく政則としては「今度こそ我が家を守り抜かねばならん! 失敗は許されない!!」と思っているわけです。

結果、このクーデターまでの間に細川政元の姉と結婚して縁戚になっていました。政元とその姉は勝元の息子ですから、政則からすると「家を再興させてくれた大恩人の娘をいただいた」ことになります。
となると、それまでの関係が良かろうが、主従であろうが、事があれば政元につかざるをえない。
というか、むしろ最初からそのつもりだったとしてもおかしくありません。

もう一人は、周防・長門守護である大内政弘の長子・大内義興(おおうち よしおき)です。

大内政弘は、応仁の乱の際、最後まで足利義視&義稙についていましたが、この頃には体調が優れなくなっていたようで、代わりに息子の大内義興を河内征伐に参加させていました。
そのため河内の大内軍は
「まだ家督を継いでいない若殿様が、クーデターという未曾有の展開に独力で対応しなければならない」
という事態に陥るのです。

大内義興/wikipediaより引用

正弘であれば、おそらく義稙に味方することを選んだでしょう。
しかし、まだ幕政の荒波に揉まれていない義興は判断が付きかねたものか、「兵を兵庫まで引き上げて様子を見る」という、何とも中途半端な対応をしました。

一説には、「政元方が京都に滞在していた義興の妹を人質にとり、義興が義稙に味方しないよう脅迫した」ともいわれています。もしこれが本当だったら、ゲスいにもほどがありますね。

 

義稙にもまだ8,000の畠山兵がいる

では京都を追い出された足利義稙は?
というと、まだ畠山政長の兵8,000がおり、士気も高かったため、徹底抗戦の空気が漂っていました。

少し経ってから、赤松政則と大内義興が「義澄様を義稙様の猶子にして、跡を継いでいただくことにすれば丸く収まるのでは?」という案を出しましたが、これは交渉まで行かずに終わっています。

クーデターを起こす前に政元がこれを思いついていれば、もう少し穏便に済んだかもしれません。
義稙も子供に恵まれず、当時は次の将軍候補が決まっていませんでしたから、義澄を猶子にする案も実現不可能ではなかった……と、この辺は「IF」の話になってしまいますので、時系列を進めましょう。

もう一つ注目すべきは、朝廷の動きです。
意外なことに、朝廷は紆余曲折の後、このクーデターを受け入れています。

これが後ろ盾に感じられたのか。
政元は畠山政長の討伐に向けて、諸大名から兵を集めて4万ほどで河内へ出陣します。

実質的には義稙討伐ですよね、これ。

義稙と政長は、正覚寺(大阪市平野区)に籠城して徹底抗戦の構えを取りました。
籠城するからには、援軍のアテがあるわけです。実は、政長の領国の一つ・紀伊から数千~1万の援軍が来る予定でした。

が、赤松政則によって足止めされ、合流できません。そしてその間に食料が尽きかけ、義稙と政長、兵の士気は急落してしまいます。

そんな状態で総攻撃をかけられたらどうなるか?
って言うまでもありませんね。
政長は重臣らとともに自害。それを見届けた後、義稙は投降しました。

 

義稙が軍事行動にこだわったのも理由あり

一応のカタチはついたものの政元は手を緩めません。

義視と義稙の後ろ盾になっていた公家の葉室光忠(はむろ みつただ)を殺害。
政長の嫡子・畠山尚順だけは正覚寺から紀伊に落ち延び、後々まで義稙に味方し続けました。

単に【クーデターを起こされた将軍】と習うと、『どんだけダメな人だったのよ?』と思われがちですが、敗戦後にも味方がいたというあたり人徳というか将軍の素質はあったのかもしれません。
ここはやはり細川政元の企てが上回ったというところで。

同時に「義稙が軍事行動にこだわらなければよかったんじゃないの?」とツッコミを入れたくなる方もおられるでしょう。

むろん義稙にもきちんとした理由があります。

義稙は棚ぼた的な偶然で将軍になったため、自身の支持勢力が心もとない状態でした。
それを巻き返すためには、
「政元の影響を弱める」
「他の大名から絶対的な支持を取り付ける」
ことが不可欠であり、それには軍事行動が一番手っ取り早かったのです。

幸い(というのもビミョーですが)、先代将軍・足利義尚のやり残した六角征伐がありました。
これをうまく片付ければ!
と思って実行に移し、諸大名からの評価が爆上がりしたものですから、「この際一気に人気を取り付けて、政元を幕政から締め出そう!」と考えてしまったのですね。

畠山氏のゴタゴタは、ちょうど河内という近場で起きていましたし、介入するには絶好の機会でもありました。

また義稙は、政元の対抗馬として、阿波細川氏(細川氏の傍流)の当主・細川義春を引き立てていました。
足利将軍家の通字「義」を与えているのも味方に引き入れるためです。

それまでに細川氏の本家にあたる京兆家ですら、「義」の字を与えられたことはありませんでした。
永享の乱でもそうでしたが、この「字を与えられる(偏諱)」のって名誉がある分、火種にもなりやすいんですよね。

永享の乱とは?鎌倉公方・足利持氏が1438~39年に切腹へと追い込まれ

結果として、同じように焦っていた政元が先に行動に出てしまい、明応の政変が引き起こされてしまいました。
こういうのは「先んずれば人を制す」と言っていいんですかね。なんか違う気が……。

義稙は諸大名からの信望は得つつあったのですから、もう少しゆっくり・内密に事を運べば、政元の力を弱めるくらいはできたような気もします。粘りに粘れば、政元はいずれ跡継ぎ問題で自爆していたでしょう。
実は義稙と政元は同い年(文正元年=1466年)生まれなので、後は寿命との勝負になりますかね。

 

その後の幕府や義稙は?

事後の幕府と義稙の動きも見ておきましょう。

このクーデターで、細川政元は幕政掌握におおむね成功しました。
同時に、奉公衆などの将軍直属の軍事的基盤が崩壊し、将軍はほぼ完全に傀儡化。この後に政治を主導しようとした将軍や、協調していたと思われる時期もありますが、大勢とはならず「神輿」のまま、室町幕府自体が緩やかに崩壊していきます。

ちなみに追い出されて北陸へ逃げた義稙のほうは、この後も政元討伐を訴えておりました。

その呼びかけに応じて、能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などが集結したことがあります。九州の大友氏など、直接の参加はせずとも協力する大名もいました。
政変直後の時点では、まだ「将軍」の権威は生きていたともいえます。

当然ながら、政元にとっては非常にマズイことです。

ただちに越中へ軍を派遣するのですが、越中勢との戦いで大敗北を喫し、逆に追い払われてしまいます。
結果、越中とその周辺は完全に義稙方となり、政元、ひいては幕府も手を出せなくなってしまいました。

しかしそれ以上は事態が進展せず、明応七年(1498年)に義稙は越前の朝倉氏を頼り、兵を動かしました。

このときは延暦寺や高野山まで味方につけて、近江まで進出。
そこに、かつて自らが追い出した六角高頼がたちはだかり、ものの見事にリベンジされてしまいます。

その後の義稙は一度河内に逃げ、さらに大内氏を頼って周防へと流れていきました。

わずかに残った幕府の組織では、政所頭人かつ山城守護の伊勢貞陸(貞宗の子)が政元に対抗するようになります。
彼は富子の要望で義澄を後見しており、義澄や政元の決定も、貞陸が書類を発行しなければ実行されないという立場でした。ゆえに対抗馬になり得たのです。

ちなみにこの間、近隣では教科書でもおなじみの【山城の国一揆】が勃発。
貞陸も政元も、一揆に参加した国人を味方につけようと工作しています。

結果として一揆は収まるのですが、反比例するかのようにカオスは加速しました。
だから、なんで普通に一揆を収めようとしないの?ってやつで……(´・ω・`)

 

傀儡としたはずの義澄と対立が深刻化

近畿圏での他の問題としては、畠山氏の内紛が続いたことが挙げられます。
畠山氏の内紛は尾州家(政長)と総州家(基家)の対立でしたが、明応の政変で政長が自害したため、基家が政元に後押しされる形で家督を継ぎました。

しかし、紀伊に逃れていた政長の長男・尚順が粘り強く抵抗、明応八年(1499年)に基家を討ち果たします。
これにより、尚順は紀伊~河内に渡る一大勢力を築き、義稙とも連絡を取りながら機会をうかがっていました。

結果としてこれは成功しませんでしたが、政元はジリジリしていたようです。

掌握したはずの幕府中枢でも、少しずつ政元の思惑からズレはじめました。
傀儡として擁立したはずの将軍・義澄が、成長するに従って自ら政務を取ろうという意志を見せ始め、両者の対立が深刻化していったのです。

ちなみに、細川氏の中でも分裂が始まりかけていました。

まぁ、その原因の6割くらいは政元が
【修験道に傾倒しすぎて子供を作らなかった】
せいなんですが。

じっくりゆっくり義稙に毒を盛って体調不良と見せかけて暗殺し、その間に自分の家のことも片付ける……という方針を取れば、政元の一人勝ちになったかもしれません。

まぁ、その辺の詳細は、馬渕まり先生の記事をご覧ください。

比叡山延暦寺を焼き討ちした細川政元は★3つ! 40歳まで◯◯ならば空も飛べるハズ……えっ???

明応の政変は結局、
「将軍家も畠山氏も細川氏も分裂して、近畿一帯を混沌に陥れることになってしまった」
という誰得?な出来事でした。

この状態は約75年後、織田信長が十五代将軍・足利義昭を奉じて上洛するまで続きます。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典』足利義稙 細川政元 足利義澄 日野富子
明応の政変/wikipedia

 



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