歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

北条早雲/イラスト・富永商太

日本史オモシロ参考書 北条家 その日、歴史が動いた

北条早雲(伊勢宗瑞)64年の生涯をスッキリ解説!浪人の下剋上ではなくエリートだった?

更新日:

戦国時代には多くの武将がおりながら、教科書に出てくるのはほんの一握り。

世間的には名前の知られてない存在でも、それぞれに特異なキャラがありエピソードがあり誰を見ていても面白いのですが、逆を言えばキリがないので、本コーナーでは戦国草創期の3名にスポットを当ててみたいと思います。

北条早雲
斎藤道三
大内義隆

今回は、相模に根付き、関東全域に影響を与えた後北条氏の始祖・北条早雲に注目。

実は北条早雲は、出自や経歴を考えると「伊勢宗瑞」あるいは「伊勢新九郎」という名前のほうがより正しいと考えられています。
後述しますが、元々は室町幕府の名門官僚の出なのです。

この記事を書いている時点では「北条早雲」のほうが検索結果の件数が多いので、以下こちらで統一します。

 

室町幕府のエリート武士だった

北条早雲本人の話の前に……戦国ゲームやマンガにおける「北条氏」って、かなり有名ですよね?

特に北条氏康は、武田信玄や上杉謙信と五分に渡り合い、関東No.1の武将に考えられるような存在。
その氏康の息子である北条氏政と、孫の北条氏直が、豊臣秀吉小田原征伐で滅ぼされますが、彼ら親子が降伏する1590年まで北条は関東でも最大の大名でした。

【関連記事】小田原征伐 豊臣秀吉

早雲から続く北条一族を整理しておきますと……。

1代 北条早雲

2代 北条氏綱

3代 北条氏康

4代 北条氏政

5代 北条氏直

早雲から始まり5代で滅亡したということになります。

では、北条氏はいかにして始まったのか?

古い戦国本になりますと、「一介の浪人が今川氏や足利氏のトラブルに乗じて城を乗っ取り、下剋上で勢力を拡大した」なんて解説がありますが、現在ではほぼ否定されています。
出自に関して様々な説がある早雲も、近年では
「父は伊勢盛定、母は京都伊勢氏当主かつ政所執事・伊勢貞国の娘である」
というのが有力です。

ゆえに伊勢宗瑞とか伊勢新九郎が本名だとされるのですね。

しかも、伊勢氏は単なる浪人なんかじゃありません。
父の盛定は、政所執事の伊勢貞親と共に、室町幕府八代将軍・足利義政の申次衆(将軍と武士を取り次ぐ役目の官僚)だったとされる人物です。

伊勢貞親は足利義政の育ての親ともいえる立場ですから【応仁の乱】前後によく出てくる名前。
本コーナーの応仁の乱で、なんとなく覚えている方もおられるでしょうか。

そんな名門出身の北条早雲は、自身は「北条氏」を名乗っておらず、息子の北条氏綱の代からでした。
父の死後しばらく経った大永三~四年(1523~1524年)あたりとされています。

 

スポンサーリンク

姉が今川家に嫁ぎ氏親を産む

早雲の血縁者としては、姉or妹とされる北川殿も重要です。

彼女は駿河守護・今川義忠の正室だと考えられています。
北川殿が文明五年(1473年)に産んだ今川氏の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と、早雲の関係も大きなポイントです。

名門今川家の当主が甥っ子にいるというわけで、早雲自体の出自もなかなかの位であったことが想像できますね。

ただし生年は不明でして、現在有力な説が康正二年(1456年)。
その27年後の文明十五年(1483年)に九代将軍・足利義尚の申次衆に任命されているので、まあ打倒な生年でしょうか。

その前に足利義視に仕えていたとされる時期もあります。この説で行くとその頃10歳程度になってしまうため、義視には仕えていないかもしれません。
まあその辺は今後の研究で明らかになるとして、先へ進みましょう。

早雲は、1487年に奉公衆(幕府の武官)に任命。
幕府に仕えながら、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたとされています。
これは彼の人生観に大きく影響を与えました。

 

内紛につけ込まれた今川を救うべく……

後北条氏といえば関東ですよね。
元は幕府の中核にいた彼が東国へ向かったきっかけは、文明八年(1476年)に姉の夫である今川義忠が、(味方のはずの)東軍・斯波義良の家臣に討たれてしまったことでした。

早雲から見て甥っ子でもある今川龍王丸はまだ幼く、戦乱真っ只中の駿河を背負うには頼りなさすぎ。
このため今川氏の家臣である三浦氏や朝比奈氏などが、今川義忠のイトコ・小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立して、家中が二分される家督争いが始まってしまいました。

すぐ近くに外敵がいるのに何やっとる……(´・ω・`)
って、戦国時代ってこういうお家騒動ばかりなんですけどね。

「早く次の当主を決めなければ! そのためなら手段は選ばない!!」
将軍家にも連なる名門・今川家は、そんな状況に陥っておりました。

この今川の騒動に介入しようとしたのが、堀越公方・足利政知(義政の異母兄)と扇谷上杉家です。
堀越公方からは執事の上杉政憲、扇谷上杉家からは家宰の太田道灌(最初の江戸城を作った人)が兵を率いて駿河へ。

完全にヤル気満々です。

太田道灌/wikipediaより引用

小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も範満方としてやってきたといわれています。
つまり、龍王丸派は圧倒的不利な状況でした。

そこで甥っ子のために下向してきたのが早雲というわけです。
父・盛定らの命であり、実際、早雲は有能でした。

上杉政憲と太田道灌を騙すようなカタチで撤兵させ、
「龍王丸が成人するまで、範満が当主を代行する」
という案を出し、(少なくともこのときは)話を丸く収めます。

龍王丸派と範満派、それぞれに浅間神社で神水を酌み交わして、和議を誓わせたそうで。
範満は駿河館に入り、龍王丸は母・北川殿と小川城(焼津市)へ移って成長を待つことになります。

念押しのためでしょう。
文明十一年(1479年)には、前将軍・足利義政から
【龍王丸の家督継承を認める書類】
が発行されていました。

 

スポンサーリンク

早雲はやっぱりデキる人

しかし、時が過ぎ、龍王丸が15歳を過ぎても、範満は家督を戻そうとしません。
もはや様式美ですね。

早雲が奉公衆に任命されるのは、この間のこと。
長享元年(1487年)にも再び駿河へ行くのですが、このときも奉公衆という肩書が多少なりとも役に立ったものと思われます。

とはいえ、年号を見てもわかる通り、既に応仁の乱が終わっており、関東も享徳の乱がやっと終わったところなので、全体的には「幕府の権威ってwww」みたいな感じだったかもしれません。

しかし、早雲はやっぱりデキる人でした。

甥っ子・龍王丸を補佐して石脇城(現・静岡県焼津市)に入り、兵を集めて軍を蜂起。そのまま駿河館を攻め、範満とその弟・小鹿孫五郎をさっさと始末してしまうのです。なんたる早業。

晴れて龍王丸は駿河館へ移り、2年後には元服して「氏親」を名乗り、正式に今川家当主となります。
今川氏親は、あの今川義元の父ですから、早雲がいなければ「桶狭間の戦い」も起きず、日本史に大きな影響を与えたかもしれません。

今川義元/イラスト・富永商太

ともかくこの功績により、早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現・沼津市)に所領を与えられました。

本人は駿河に留まって氏親の補佐をしていたため、守護代の地位にあったとも考えられています。

早雲はこの頃、幕府奉公衆の一人である小笠原政清の娘・南陽院殿と結婚。
長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれているので、夫婦仲はいいほうだったんでしょうね。

 

中央の思惑に対し地方グループが……

さて伊豆近くに所領を得てからは、すぐそばに根付いていた堀越公方・足利政知との関係が重要になってきます。

政知には三人の息子がいました。
長男・茶々丸、次男・清晃(のちの義澄)、そして三男・潤童子です。

もともと足利政知は、義政の命令で新しい鎌倉公方になるはずだったのに、永享の乱のせいで宙ぶらりん状態になったという経緯があります。

そのため京都や奈良では
「政知は義政を恨んでおり、そのうち清晃を還俗させて次の将軍に擁立するつもりだ」
という噂が立っていたそうで。

その陰謀に早雲と今川氏親が関与していたとか、いないとか……そんな噂話に尾ひれがついておりました。

要は「足利義政・日野富子・足利義尚の親子に対し、足利政知・北条早雲・今川氏親の地方グループが組んでクーデターをしようとしていた」という話です。

早雲からすれば足利義尚は直接仕えていた主君です。
もしかしたら「義尚様に跡継ぎが生まれなければ」という考えはあったかもしれません。

しかしそれが実行されるより早く、政知が延徳三年(1491年)4月に亡くなってしまいます。
そしてその三ヶ月後の同年7月、茶々丸が潤童子とその母・円満院をブッコロすという物騒極まりない事件が起きるのでした。

 

スポンサーリンク

素行が悪い茶々丸「土牢に軟禁」なんて説も

普通なら、茶々丸のほうが年長ですからスムーズに家督を継げるはずでした。
が、これはまさに日頃の行いというやつでした。

実は、茶々丸は幼い頃から素行が悪く、政知に冷遇されていたのです。
「土牢に軟禁されていた」なんて説まであるくらいですから、よほどだったのでしょう。

ただ、素行の悪さについては円満院の讒言だとか、政知の死後は円満院に虐待されたという話まであり、何ともいえません。

いずれにせよ1470年代生まれと見られる茶々丸が、20歳を超えても元服していなかったのはほぼ確実なので、よほどの事情があったのは間違いなさそうです。

更にはこの間、九代将軍の足利義尚が亡くなり、十代将軍・足利義稙(当時は義材)になっていました。

そこで起きたのが明応の政変です。
明応二年(1493年)4月、管領・細川政元は足利義稙を追い出し、茶々丸の異母弟かつ潤童子の同母兄である清晃を将軍に擁立しました。
清晃は還俗して義遐、のちに足利義澄と名を改めます。

義澄にとって茶々丸は、実母と実弟の仇です。
仇討ちのため、実力があり現地にも近い北条早雲に出兵を命じました。

実は早雲は、延徳三年(1491年)5月~明応四年(1495年)あたりに出家しており、これをもって幕府の役職・奉公衆を辞めたとも考えられているのですが、義澄はそんなことお構いなしだったようです。

まあ、この時点ではまだ家督を譲ってませんからね(長男・氏綱はまだ幼児)。




スポンサーリンク


義澄からすると
「アイツ、跡継ぎの話をしてこないってことはまだバリバリ仕事できるんだよな?
出家したらしいけど、病気とかじゃないっぽいな。
なら俺の仇討ちに付き合えよ^^」
みたいに考えていたんですかね。

次のページへ >



-日本史オモシロ参考書, 北条家, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2018 All Rights Reserved.