北条早雲/イラスト・富永商太

日本史オモシロ参考書 北条家 その日、歴史が動いた

北条早雲(伊勢宗瑞)64年の生涯をスッキリ解説!浪人の下剋上ではなくエリートだった?

更新日:

将軍家や有力大名を巻き込んだ一大争い

命を受けた早雲は、明応二年(1493年)の夏~秋頃に、堀越御所の茶々丸を攻撃。
このとき、茶々丸に味方してしかるべきはずの伊豆の豪族たちも、早雲についたと言いますから、本人の人望のなさ・評判の悪さがうかがえますね。

と言っても茶々丸も簡単にはやられません。
堀越御所から逃亡すると、近隣の武田氏や山内上杉氏などを味方につけて、数年間抵抗し続けるのです。
早雲も伊豆の国人たちを後ろ盾に、少しずつ茶々丸を追い詰めていきました。

この辺から、こんな構図が出来上がって参ります。

足利義澄-細川政元-今川氏親-北条早雲
vs
足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定

足利義稙と大内政弘、そして茶々丸の連携が機能していたかどうかは怪しい気がしますが……仮に、ここで早雲が上方へ戻っていたとしたら、義稙たちにとっては脅威になりかねません。
茶々丸に踏ん張らせて足止めさせる――というのは遠交近攻の道理に適っています。

早雲は、茶々丸の捜索(討伐)のため、明応四年(1495年)に甲斐へ攻め入り、甲斐守護・武田信縄(信玄のジーちゃん)とも甲斐と伊豆の国境付近で戦いました。

上記の通り茶々丸は、ときの将軍・義澄の母と弟の仇です。
その捜索と討伐に抵抗するというのは、名門・武田氏といえども立場的にマズそうなもんですが(おまけに甲斐の守護に戻ったばかり)、それだけ官位や幕府の意味が薄れていたのですね。

 

伊豆の韮山城を本拠にジワジワ追い詰め

後に後北条氏の本拠となる小田原城を奪取したのは、甲斐を攻めたのと同年の9月ごろとされています。

これまた時期については異説がありますが、残っている書類からすると、少なくとも明応十年=文亀元年(1501年)までには小田原城を取っていたはず。
誤差があっても数年程度でしょう。

小田原城を攻めた理由は、当時の城主・大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為と考えられています。

なお早雲自身は、その後も【伊豆の韮山城】を本拠としています。
後北条氏=小田原のイメージですから、これは意外に感じる方も多いかもしれません。

北条早雲の伊豆討ち入り/イラスト by 味っ子 wikipediaより引用

かくして徐々に茶々丸を追い詰めていった早雲。
明応七年(1498年)8月、南伊豆の深根城(現・静岡県下田市)を落とし、茶々丸を自害させてようやくこの問題を解決しました。

足利茶々丸公方墓/photo by 文屋将監 wikipediaより引用

実は、この直前、東海道沖を震源とする【明応の地震】が起きていました。
東は房総半島、西は紀伊という超広範囲に渡って揺れたという記録があり、推定マグニチュードは8.3~8.6ともいわれる大地震です。元は淡水湖だった浜名湖に津波が押し寄せ、周囲の土砂を削り取って汽水湖(海水と淡水が入り交じる)にしたのもこの地震です。

当然ながら、早雲と茶々丸がいがみ合っていた伊豆・駿河にも揺れや津波が来襲し、両軍に甚大な被害をもたらしました。
早雲はそれを逆手に取り、動ける者を集めて深根城城主・関戸吉信らを皆殺しにして茶々丸を追いこんだのだそうです。

この辺にも異説として、
「茶々丸は甲斐で亡くなった」
「深根城の皆殺しは別件」
などがありますが、いずれにせよ早雲のキレっぷりがわかりますね。

屋島の戦いの際、源義経が「こんな嵐の中を攻めてくるなんて平家は思ってないから、むしろ奇襲する好機!」と押し切って船を出した話と似た作戦ですね。
もし彼らが同じ時代に生きていたら、意気投合したか、同族嫌悪で徹底的にやりあったか……。

 

「二本の大きな杉の木を倒した鼠は虎になった」

早雲の電光石火な行軍により、宙ぶらりんだった堀越公方問題は(全滅という血なまぐさい形で)カタがつきました。

元々は足利義政の命令で足利政知も下向してきたので、幕府側である早雲が討つのは何だかなぁという気もしますが……。全ては足利持氏(四代目の鎌倉公方で、六代将軍・足利義教とケンカして最終的に鎌倉府を滅亡させた人)が悪いんや。

早雲はこの間、今川氏の親戚としても動いていたようです。

明応三年(1494年)頃から今川の兵を指揮して三河や遠江にも攻め込み、16世紀に入った頃には松平長親(徳川家康の高祖父)と戦闘。
これまでの経緯もあって、早雲と氏親は比較的親密であり、連携して領地を広げていったようです。

一方その頃、関東の北部では、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛「長享の乱(1487-1505年)」が再燃していました。

なぜ同族で争っていたのか?というと、享徳の乱の終盤に内輪モメが始まり、それが尾を引いていたんですね。
だから、何やってんのよ、と……(´・ω・`)

早雲は扇谷家の上杉定正につきました。
しかし、山内家当主で関東管領でもある上杉顕定との対陣中に、定正が”うっかり”落馬して亡くなったため地元に帰っています。

他に、扇谷上杉氏は相模の三浦氏と大森氏を頼みにしていたのですが、この年に当主の三浦時高・大森氏頼)が相次いで亡くなり、大きく力を削がれてしまいました。
死因は、時高が自害あるいは病死、氏頼は寿命か病死とされています。

時高と氏頼は二人とも1410年代生まれなので、充分すぎるほど長生きではあるのですが……あまりにもタイミングが良すぎて、必殺仕事人(直喩)でも暗躍していそうなかほりがしますね。
この時代の「落馬で事故死」の信憑性は、現代における「心不全」とどっこいどっこいですし。

北条早雲/wikipediaより引用

このとき早雲が、こんな夢を見たという話があります。

「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、その鼠は虎になった」

英雄譚によくある「夢のお告げ」というやつっすわー。
二本の杉は山内上杉家と扇谷上杉家であり、鼠は子年生まれの早雲のことを指す、とされています。

いかにも戦国時代の人かつ野心家らしい夢ではありますが、何だか「ぼくのかんがえたかっこいいしゅっせほうほう」みたいな感じデスー。さすがに出来すぎなので、フィクションの可能性が高そうですけれども。
そして本来は鎌倉府の主だったのに、早雲の夢でさえ触れられない古河公方って……。

 

小田原を中心に内政にもチカラを入れ始める

その後、早雲は相模~南関東制圧に進出します。

と、これに立ちはだかったのが上杉顕定。
早雲の後ろ盾にも等しかった足利義澄・細川政元に接近し、これに対抗するため早雲も足利義稙と大内政弘に近づきました。
なんだか応仁の乱で似たような構図があったような……。

上杉氏に対しては、定正の甥である上杉朝良が新しく扇谷家当主になったため、彼に味方しています。
また、ここでも今川氏親と組んで、永正元年(1504年)8月の立河原の戦いに挑み、上杉顕定に勝利しました。

おじと甥でこんなに連携するのもなかなか珍しいですね。

しかし、上杉顕定は弟の越後守護・上杉房能とその守護代(家臣)である長尾能景の援軍を得て、相模へ転身、扇谷家の城を次々に攻略。
河越城に追い詰められた朝良のほうが、先に山内家へ降伏してしまいました。

このため、早雲は山内家・扇谷家両系統の上杉氏と対立するハメに……。

手を貸した相手が先に降伏してしまったのですから、早雲としては自分も降伏するか、まとめて相手にするかの二択しかありませんでした。

一方、この頃の早雲は、小田原を中心に内政にも力を入れ始めています。

例えば、永正元年(1504年)には、京都の医者・陳定治を小田原に招いて透頂香(とうちんこう/現在では「外郎(ういろう)薬」/和菓子のういろうとは別物)の製造・販売をスタート。
永正三年(1506年)には、相模で初の検地を敢行しております。

外交や合戦のややこしい時期に、同時にこんなことをこなせるのは、やはり相当に頭がいいというか器用なタイプなんですね。

 

関東進出へ向けて激アツチャンスが訪れる

さて、ここでもう一度上方の情勢をみてみましょう。

永正四年(1507年)、細川政元がいつまでも跡継ぎをはっきり決めないせいで、養子一人である細川澄之にブッコロされました。
これをきっかけとする「永正の錯乱」により、細川家が内紛をおっぱじめます。

さらにその直後、政元と結んでいた越後守護・上杉房能が、守護代の長尾為景(上杉謙信の父)にブッコロされています。

この混乱を好機と見て、京都から閉め出されていた足利義稙と、その庇護者だった大内義興が上洛。
足利義稙が将軍に返り咲きました。

足利義稙木像/wikipediaより引用

早雲と氏親にとっては、自分たちに有利な人々が中央政権に戻ったことになりますね。後顧の憂いがなくなったともいえます。

そのためか、永正六年(1509年)以降の早雲は、今川氏の親戚としての活動がほとんどなくなり、相模を含めた南関東攻略に集中するようになります。
氏親もこの間、藤原北家の流れをくむ正室・寿桂尼を迎えていましたし、年齢としても30を超えて、名実ともに叔父から独立すべき段階だったのでしょう。

とはいえ、そうさっさと進むことはできません。
扇谷上杉氏のシマだった江戸城まで攻め込もうとして、逆に押し込まれて小田原城まで迫られ、和睦したこともあります。

しかし、それから程なくして山内上杉氏の当主・上杉顕定が長尾為景に敗れて自害。
後継者の地位を巡って、顕定の二人の養子・顕実と憲房の争いが発生します。
さらに、古河公方家でも足利政氏・高基父子が対立……と、早雲にとっては激アツチャンスが訪れます。

扇谷上杉氏の当主・上杉朝良がこれらの調停に追われ、隙が見え始めたのです。

 

三浦氏を滅ぼし、ついに相模の覇者となる

早雲から見て、目下一番の攻略目標は相模の三浦半島でした。
地図を見てもらうとわかりやすいのですが、三浦半島は小田原と江戸の中間地点にあり、扇谷上杉氏の家臣となった三浦氏の拠点でもありました。

ちなみにこの三浦氏は、かつて源頼朝の重臣だったあの三浦氏の傍流子孫です。
こういうパターンは、「滅亡」と「全滅」が同義ではないことがわかりますね。

戦略を切り替えた早雲は、永正九年(1512年)8月以降、相模の城を次々と攻略。扇谷上杉氏から三浦氏側に援軍が来ましたが、これも追い返しました。
そして四年がかりで三浦氏を滅ぼし、相模の勝者となります。

この途中で早雲は鎌倉にも行っており、こんな歌を詠んだといわれています。

「枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」
(意訳)「今は枯れた木のようなこの場所に、また花咲く木を植え直して、元の立派な町に戻してみせよう」

早雲の意気込みと、永享の乱以降荒れる一方だった鎌倉の姿が伺える一句ですね。
これには頼朝もニッコリ?
伊勢氏は遡ると桓武平氏=根っこが平家(伊勢平氏)と同じになので、その辺がビミョーかもしれませんが……。

その後の早雲は、上総の真里谷武田氏(※)を支援するため房総半島に渡り、永正十四年(1517年)まで転戦。
真里谷武田氏は自分のところのお家騒動に加え、古河公方家のお家騒動で逃げてきた足利義明を迎えて「小弓公方」にしており、火種が多すぎて地雷原になっていました。

だから、なんでどこの家も「内紛を起こせば他家に手と口を出されてgdgdになる」ことがわからないんですかねぇ……。

早雲が亡くなったのが永正十六年(1519年)であることを考えると、亡くなる二年前まで現役で戦場に出ていたことになります。すげえ。

ちなみに、嫡子・氏綱に家督を譲ったのも永正十五年(1518年)というギリギリっぷりなので、上総から手を引いたのは自身の健康に不安を感じ始めたからなのかもしれませんね。

北条氏綱/wikipediaより引用

 

税負担の軽い「四公六民」を導入す

上記の通り、早雲の生年がまだはっきりしないので、享年も諸説あります。
今のところは、享年64説がやや優勢ながら、享年88説も存在。後者の場合ですと、86才まで現役で戦をやってたことになるわけで……さすがにそれはちょっと。

また、死の前年から早雲は虎の印判状を用いており、「印判状のない徴収は無効」という決まりを作っていました。
これによって、代官が百姓や職人から無理やり税を取ることを禁じたのです。

さらには後北条氏の領内での年貢を「四公六民」、つまり「四割を殿様に収め、六割は農民のものにしていい」としたのも、早雲からだとされています。
これは当時としては低いほうの税率でした。

他、分国法のはしりとされる「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」も定めたとされています。
中身は法律というより家訓に近く平易なもので、禅宗や御成敗式目の影響と思われる点がみられます。

こうした早雲の内政の上手さや、代々正室から男子が生まれて、お家騒動が起きにくい状況だったことなどが功を奏して、元々はよそ者だった後北条氏が安定した基盤を築くことができたのでしょうね。

廿一箇条の一部や、他の早雲の逸話は小田原市のホームページでたくさん見られるので、中身が気になる方はそちらで検索してみてください。

最近では、ゆうきまさみ先生による早雲を主人公とした漫画「新九郎、奔る! 1」も始まっています。

2018年8月9日にコミックスが出るそうで。
アンゴルモアといい、マンガ界では中世ブーム? 難しいけど描きがいはあるでしょうね。

大河ドラマでも戦国と幕末の反復横跳びが終わったら、中世のターンが来る……かもしれません。

長月 七紀・記

※……真里谷武田氏(まりやつたけだし)。武田信満の子・武田信長に始まる上総武田氏の分家。
血縁関係としては以下の通りとなります。

甲斐武田氏第13代・武田信満

信満の次男&上総武田氏初代・武田信長

上総武田氏二代・武田信高

信高の子&真里谷氏初代・真里谷信興

信興の子・信勝←この人が早雲時代の真里谷氏当主

【参考】
国史大辞典「北条早雲」
北条早雲/wikipedia

 



-日本史オモシロ参考書, 北条家, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.