永禄の変

永禄の変にて壮絶に散った13代将軍・足利義輝/wikipediaより引用

足利家

永禄の変で13代将軍・義輝自ら刀で応戦!敗死に追い込まれた理由とは

将軍様の凄い死に方ランキング――そんな格付けがあったら、まず間違いなく銅メダル以内は確実であろうというのが

でしょう。

永禄8年(1565年)5月19日に勃発し、大河ドラマ『麒麟がくる』では向井理さんが演じていましたね。

襲いかかる敵に対し、自ら日本刀を振るう剣豪将軍・義輝。

最期は四方を囲まれブスッブスッと突き刺さる。

まるで物語のような記録が残されていますが、では、なぜ義輝は殺されたのか?というと、動機の部分については新たな研究の見方なども出ています。

その辺を踏まえて振り返ってみましょう。

 

将軍の生命すら懸念されるカオス

応仁元年(1467年)に始まり、京都を火の海にした【応仁の乱】。

細川政元の手により将軍がすげ替えられた明応2年(1493年)の【明応の政変】。

この両事件をもって日本は引き返すことのデキない戦国時代へ突入したとされ、室町幕府では将軍の生命すら懸念されるカオスに脅かされておりました。

むろん、足利将軍家とて手をこまねいているばかりじゃありません。

何とかして自分たちの地位を安定させたい――そのために十二代将軍・足利義晴も、失われた権威と実権を取り戻すため、本来は味方であるはずの管領・細川氏も含めて戦い続けていました。

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【永禄の変】加害者側となる三好氏は、もともと室町幕府の管領を担ってきた細川氏の家臣筋です。

その細川氏が政元以降、当主と管領の座を巡って分裂しまくり、三好氏はその戦のために畿内を転戦していました。

しかし、細川晴元が管領の地位に落ち着くと、三好氏の力はかえって邪魔になります。

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そして享禄五年(1532年)6月。

当時の三好氏当主である三好元長は【飯盛城の戦い】で、晴元と手を組んだ一向一揆に敗死してしまいました。

さんざん利用しておいてヒドイ……でも、これが戦国なのよね……。

 

長慶が新当主 いったんは細川と和解するものの……

当主を失った三好氏は代替わりし、元長の息子である三好長慶が当主となりました。

まだこの時点では元服も済ませていないような少年でしたが、早くから頭角を現し、細川晴元軍とも戦います。

その後は晴元が

「長慶はまだ若年だし、今帰参するなら許してもいいよ」(超訳)

という態度を取ったため、長慶はこの話に乗って細川氏へ戻りました。

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その後、長慶が晴元の武将として働いていると、領地問題でちょっとしたトラブルが起きます。

長慶の父・元長が生前与えられていた河内の代官職を長慶が望むと、晴元が聞き入れなかったのです。

元長の死後、この職には同族の三好政長が就いていました。

この両者(元長と政長)、三好家内でも非常に仲が悪く、政長が度々晴元に「元長の野郎、こんなことを企んでますよ!」といった讒言をしていたといわれています。

そんな人が一度手に入れた職をそう簡単に譲るはずもありません。

晴元からしても、ここであっさり長慶に代官職を与えてしまったら、今度は政長から恨みを買うことになります。

晴元や政長はそんな感じでナァナァにしたがりましたが、長慶は納得しきれません。そりゃそうだ。

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