徳川家康像(駿府城本丸跡)photoby戦国未来

江戸時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

武家諸法度をわかりやすく!初代・家康に始まり15代・慶喜まで引き継がれた武家法の中身

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白石主導でより実務的に

続く六代・徳川家宣は、宝永七年(1710年)に改正。
新井白石が関与しており、まず全文を和文体で統一しました。

実は、これ以前の武家諸法度は和漢混交文です。現代人からすると「どっちかにしてくれ」といいたくなるような状況。

内容としては、賄賂に関する戒めや、各地の百姓との争論について条文が追加されています。
これまで教訓という役割が強かった武家諸法度が、少し【実務寄り】になったといえましょうか。

新井白石/wikipediaより引用

七代・徳川家継は幼少で亡くなっており、武家諸法度には手を付けていない……というか、つけられなかったというほうが正しいですかね。

そして八代・徳川吉宗です。

享保の改革でお馴染みの吉宗は、享保二年(1717年)、家宣時代の武家諸法度を廃止し、綱吉時代のものに戻しました。
改革のイメージが強い吉宗にしては、意外かもしれませんね。

さあらに、九代から十二代までの将軍は吉宗と同じく、綱吉時代のものを踏襲しています。
つまり、江戸時代後半になっても、綱吉の政策は悪くないと判断されていたことになります。

やっぱり、前半は良い将軍だったんですかねぇ。

 

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さすがにそれどころじゃない!?

十三代・徳川家定もおおむねそのまま使いました。
が、さる事情から、安政元年(1854年)に少し改訂を加えています。

事情とは他でもありません。
外国からの接触です。
海防強化の必要性から、それまで全面禁止だった大船建造について「幕府に届け出をすれば許可する」と変えました。

十四代・徳川家茂もこれを踏襲すると、十五代・徳川慶喜が将軍職に就いていた時期はあまりに短く、江戸城にもほとんどいなかったので、武家諸法度の改訂にまで手を付けませんでした。

慶喜の言動からすると、
「今さら幕府を保てるわけもないし、武家諸法度なんて後でいいわw」
という感じだったのかもしれません。

こんな感じで、武家諸法度は幕末まで一応残っていました。
実情はともかく、幕府の権威が失墜した後になっても、将軍や幕閣にとっての柱のような存在だったのでしょうね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「武家諸法度」 武家諸法度/wikipedia

 



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