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16世紀半ば〜18世紀ごろに用いられたスペインのガレオン船/wikipediaより引用

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岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件が鎖国に与えた影響とは?

更新日:

キリスト教の禁止や鎖国に関連した事件というと、まずは島原の乱が頭に浮かびません?

弾圧を強めていった江戸幕府に対し、残されたキリシタンたちが一斉蜂起!
こうした動きをトコトン危険だと感じて、さらに禁教・取締の強化が推し進められていく――。

いかにもわかりやすい【時代の変わり目】って感じですが、実際のところ、島原よりもっと複雑で、徳川家康や江戸幕府に鎖国を決断させる要因となったのでは?という事件があります。

岡本大八事件(1609-1612年)】

ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件(1608-1610年)】
です。

九州の戦国ファンには割と馴染み深いですかね。

しかし、日本史を専攻していてもキリシタンに特別な興味でもなければあまり触れることのない同事件。
知っていると知らないとでは、やっぱり鎖国の理解にも影響してくると思うので、今回、丁寧にわかりやすくあらましを追ってみました。

一体、どんな事件だったのでしょうか。

 

コトの発端は朱印船貿易の船員だった

西洋をシャットアウトするかどうか。
これらの事件は、まだ家康が迷っていた頃に起きたものです。

対日貿易を独占しようとするポルトガルと、それを切り崩して自国の利益増を狙うイスパニア(スペイン)、オランダ。
彼らの対立だけでなく、自らの保身と日本でのキリスト教を保とうとする長崎奉行・日本イエズス会の存在も関係してきます。

前提の話からして、既にドロドロっす。

事件の発端は朱印船。
伽羅木(きゃらぼく・木材にしたり果実を食用とする木)購入のため、徳川家康が有馬晴信に命じてチャンパ(ベトナム)へ派遣した貿易船がマカオに寄港したとき、船員がちょっとした暴動事件を起こしてしまいました。

当時活発に行われていた朱印船貿易(角倉船団)/国立国会図書館蔵

当時のマカオはポルトガル領だったので、責任者は当然ポルトガル人です。
アンドレ・ペッソアという人でした。

彼は武力を持ってこの暴動を鎮圧し、日本人に多数の被害者がが出てしまいました。

そこで彼は
「このまま黙っとくとマズそうだから、一応ちゃんと手続きを踏んで、日本にも話を通しておこう。でないと、貿易ができなくなって本国に怒られる」
と考え、自らノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号に乗って長崎へ来航するのです。

 

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「直接この国の一番偉い人に説明したい」

ペッソアは、長崎奉行・長谷川藤広に事件の調書を提出、さらに「直接この国の一番偉い人に説明したい」と申し出ました。

しかし、藤広は
「ただでさえキリスト教や西洋に対する目が厳しくなっているのに、こんなことを大御所様に知られたら国交断絶になってしまう。なんとか穏便に済ませたい」
と考えたようで……。

そのため、こんなコトを言い出します。

「事件の詳細は伏せて、ペッソアさんの書記の人を使者として駿府に送りましょう。私の身内を道案内と取次役につけますので」

ペッソアもこれを受け入れ、使者が出発。
しかし別の問題が噴出します。

家康に物を売ろうとしていたポルトガル商人らが、先買権や日本との取引関係の改善などに対して不満を訴え、ペッソア自身が駿府に行くことを強く求めたのです。
実際は、イエズス会士らが日本の状況などを説明し、改めて止めたので実現には至りませんでしたが、藤広とペッソアの関係が悪化する元になりました。

そりゃあ、一度決まって実行に移しかけていること、しかも国同士の付き合いに関わることを、外野にギャーギャー言われて変更するの・しないのって話になったら、お互いに気分が良くないですよねぇ。

藤広はその辺がよほど頭にきたらしく、ポルトガル人たちへの報復を考えるのでした。

 

ペッソア処刑がアッサリ確定

藤広は、朱印船を派遣した有馬晴信に対してこんな密告をしました。

「今、日本に来ているペッソアという奴が、マカオであなたの船の乗組員をブッコロしましたよ! これは大変なことですから、ぜひ大御所様に言上して処罰していただかなくては!」

おいおい、藤広さん、さすがにそれは酷いって。
と泣きたくなるのがペッソアでしょう。

その頃、駿府では別の西洋人たちがやってきていて、家康たちがその対応をしているところ。
平戸に入港していたオランダ船からの使者と、上総で難破して日本側に救助されていた前フィリピン長官・ドン=ロドリゴ=デ=ビベロが、相次いで家康に謁見しておりました。

彼らはそれぞれ、自国と日本との交易を望んでおり、家康も「いいよ」と返事しています。
つまり、相手がポルトガルでなくても、西洋の文物を日本に入れられるルートが作られつつあったのでした。

そのため、晴信から朱印船の件を聞いた家康はアッサリ命じます。

絵・富永商太

「付き合いがめんどくさくなりそうなポルトガルはもういいわ。ペッソアとかいう奴は、責任取ってもらうってことで処刑。有馬のほうでカタをつけるように」

藤広も長崎奉行の権限を使って、ペッソアの取り調べをしようとしていました。

危険な空気を感じ取ったペッソアは船にこもって出港の準備を開始。
さらにそれに気付いた藤広も警戒し、晴信が駿府から長崎に帰ってくると、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を拿捕する準備を始めました。

まさに、一触即発という状況です。

 

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ヘタすりゃポルトガルと日本の全面戦争

慶長十四年十二月(1610年1月)。
日和待ちをしていたノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を、有馬家の兵が攻撃しはじめました。

当然、相手からの大砲等による反撃で、有馬側も大きな損害を受けたのですが、数日後、ついに船は炎上します。
ペッソアは火薬庫に自ら火を放ち、船と共に沈んだと伝わっています。

16世紀半ば〜18世紀ごろに用いられたスペインのガレオン船/wikipediaより引用

もう少し後の時代であれば、ポルトガルと日本の全面戦争になっていてもおかしくないこの事件。
幸い、両国の距離が離れており、当時の航海技術ではポルトガルから大軍を即座に送るのは難しかったことなどから、そうはなりませんでした。

しかし何もなく済むはずもありません。
この事件により、長崎-マカオの通行は一時止まってしまいました。

ただし、経済的な理由もあって、双方ともに早期解決を望んでいます。

マカオの経済は長崎との貿易に強く依存していたばかりか、この時代は日本側も関係を完全に断ち切ることは不可能でした。生糸の生産量がさほど多くなく、中国からの輸入に頼っていたため、ポルトガル船が運んできてくれないと困ったのです。

そこで関係修復への交渉は早めに行われました。

ポルトガル人からは、有馬家の兵などに対して処罰が求められました。

が、家康によって
「今回の件に対して、さらなる処罰は認めないが、貿易は今まで通りにする」
というお墨付きが出されます。

本来、この件はそこで片が付くはずでした。
……というか、ポルトガルとの間の話はこれでカタがついています。




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この先こじれてくるのは、国内での話。
ここから先が、岡本大八事件となります。

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