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酒井忠清が下馬将軍と呼ばれたのはナゼ?大老ながら意外に庶民的な一面も

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大名には“右腕”とか“知恵袋”と呼べるような家臣が存在します。

武家のトップである征夷大将軍にも常に有能な家臣が存在しており、江戸時代で言えば
・新井白石
・柳沢吉保
田沼意次
あたりが著名ですかね。

ただし、彼らはどちらかというとイレギュラー的に名が通った人物で、実際には
・松平
・水野
・井伊
・酒井
・阿部
・大久保
など、徳川家に近しい家系から多くの有力者が登場しています。

その中でも特に力を持っていた一人が下馬将軍・酒井忠清。

下馬将軍の「下馬」とは、酒井家の屋敷が江戸城大手門“下馬”札の前にあったことに由来しており、その「将軍」であると呼ばれるほどに権勢の強かったことが、当時から囁かれていました。

一般的には馴染みの薄い四代将軍・徳川家綱の時代に権勢をふるった大老ですので、もしかしたら初めて聞いたという方もおられるかもしれません。
本日は、この酒井忠清について見てみましょう!

なお、老中や大老など。
江戸時代の役職については以下の記事をご参照ください。

なんとなーく理解されている方が多いので、一度、スッキリさせておくと良いと思います!

大老・老中・若年寄の違い、ご存知ですか? 細分化された江戸幕府の役職

 

徳川譜代のエリート家系に生まれて

酒井忠清は、徳川家の譜代家臣・酒井家の出身です。
しかも、徳川家康の異父弟・松平定勝の孫という、血筋的にもかなりのエリートでした。

祖父も、徳川秀忠・徳川家光の2代・3代将軍に仕えた酒井忠世です。
この時点で将来を約束されたようなものですね。

父・酒井忠行が早くに亡くなったため、14歳で家を継ぐという苦労もしていますが、そこはそれ。
先祖代々の重臣という立場が彼を守り、ガンガン昇進していきます。

そして、忠清27歳のとき、徳川家綱が11歳で将軍となりました。

徳川家綱/wikipediaより引用

 

この頃は家光時代の老中である酒井忠勝・松平信綱などが存命中だったため、忠清はその輪の中に若手として加わります。
忠勝と忠清は同じ酒井氏ですが、血筋が違うので、直接の親子兄弟関係ではありません。

世代交代を意識したのでしょうか。
家綱時代には若い忠清のほうが忠勝よりも上席になっており、周囲の重臣たちも結構な高齢でありました。

 

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大名でも馬から降りてくださいね

彼らと比べて忠清は、二回りぐらい年下なので、自然と権力が集中することになります。

しかも上記の通り、酒井氏は代々徳川家に仕えた家柄=後ろ盾や名分も持っている。
他の人が出世できる見込みがほぼなくなってしまいます。

そのため、いつしか「下馬将軍」とまで呼ばれるようになりました。
前述の通り、忠清の屋敷が江戸城大手門の下馬札の前にあったからです。

さらに詳しく説明しますと、下馬札とは「ここから先は将軍の住まいなので、大名であっても乗り物に乗ったまま通ることは許されない」という意味です。

つまり他の大名や武士は嫌でも忠清の屋敷の前で馬や駕籠から降りなければなりません。
それと忠清の権勢が将軍同様だということで、「下馬将軍」というあだ名が付いたのです。

その牽制をアテにして、媚を売る大名もいたとか、いなかったとか……。

 

武から文へ 江戸の社会体制に大きな影響を与える

忠清は、別に威張り散らしていただけではなくて、ちゃんと仕事もしていました。

家綱時代は、江戸時代における【文治政治】の始まりといわれています(文治政治については後日詳細を)。

そのうち
「殉死の禁」
「証人制(人質)の廃止」
は、忠清が権勢を持っていた時期に始まったものです。

「寛文・延宝の治」といわれる安定期も、彼の時代とかぶります。

むろん、だからといって「家綱時代の良かった点は全部忠清の功績」ではなく、あくまで「仕事をサボっていたわけではない」ということでご理解ください。

忠清の晩年については、次の将軍・徳川綱吉の恨みを買ったといわれています。

その理由は「家綱が子供のないまま亡くなり、皇室から宮将軍を迎えようとしたから」というものです。
鎌倉時代の公家将軍・皇族将軍という例があるので、無茶苦茶というわけではないものの、家綱の実弟である綱吉からすれば、自分の存在を無視されたように感じたでしょう。

しかし、現代ではこの話は信憑性が薄いという見方も強まってきました。
宮将軍擁立説をはじめとした忠清の悪評は、ほぼ全て綱吉時代以降に書かれたものだからです。

綱吉の将軍就任後、忠清が亡くなると、その墓を徹底的に調べさせたと言います。
そしてそれ以上忠清を罰することができないとなり、酒井氏の領地のうち伊勢崎藩を分地されていた忠清の弟・忠能を改易したほどでした。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

綱吉がどうして忠清をそこまで執拗に恨んだのか、そこについては風聞すら残っていません。

「下馬将軍」とまでいわれたからには、忠清に味方する世論もほとんどなかったでしょう。
そのため、この点については全くの謎になっています。

 

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「笑い上戸」「芸能が好き」

忠清は異性関係については静かなほうで、正室・継室以外の女性にはほぼ手を付けていません。

一人だけ他の女性との子供もいますが、それは正室が亡くなってから継室を迎えるまでの間のこと。
それでいて子沢山なので、夫婦仲を大事にする人だったのではないかという見方もあります。

この時代の武士なので、それが愛情から来ているのか、立場故に身を謹んでいたか、どちらもありえますが。

他には「非常に早口だった」とか「大海のような人」、あるいは「笑い上戸」「芸能が好き」といった評価が残っています。

なんだか急に親近感の湧いてくる話になりますよね。
しかめっ面で周囲に対する圧がハンパない、将軍の側近というイメージからはかけ離れている。

これらが全て事実だったとすると、
「家庭を大事にし、よく笑う温厚な人物で、楽しみも持っている」
というような人物像になりますね。

それゆえに、綱吉が忠清を嫌う理由がますますわからなくなります。

綱吉は就任前後から、儒学に基づいた厳格な姿勢を採ることを表明していたので、忠清の性格的な何か、もしくはちょっとした言動が、よほど癇に障りでもしたのでしょうか。
越後騒動の再審時の様子からしても、綱吉は「自分が納得するやり方を実現できるまで、絶対に満足しない」というところが見受けられますし。

当時の瓦版でもあれば、その辺の噂話くらい見つかりそうなものですが……残念ながら、この頃の瓦版は火災等のせいでほとんど残っていないんですよね。
「下馬将軍」の正当な評価が定まるのは、まだまだ先になるかもしれません。

長月 七紀・記

大老・老中・若年寄の違い、ご存知ですか? 細分化された江戸幕府の役職




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【参考】
国史大辞典「酒井忠清」
酒井忠清/wikipedia

 



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