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復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 江戸時代 その日、歴史が動いた

菱垣廻船と樽廻船の物流紛争が意外に熱い!それぞれ何を運んでいた?

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IT化によって情報の行き来はスムーズになっても、人が生きていくためには絶対的に“モノ(物資)”の運搬が必須です。

食べ物や飲み物に始まり衣類や日用品など。
いくらAmazonでポチッとやったからって、誰かがそれを運んでくれなければ意味ないワケで、【物流】とは、いつの時代でも人々にとって極めて大切なものであります。

江戸時代に、それを担ったのが船。

特にこの頃は社会経済の発展により物流が盛んになり、江戸―大坂間では
菱垣廻船(ひがきかいせん)
樽廻船(たるかいせん)
が誕生しました。

いずれも「上方の製品を江戸へ運ぶ」船のことでありますが、実際には品目の違いがあり、それが元で後にトラブルに発展していたりもします。
そう見ていくと、結構面白いストーリーがあったりします。

本日は菱垣廻船と樽廻船を見て参りましょう。

 

「この船は幕府やお殿様の荷物も運んでますよ」

菱垣廻船の「菱垣」は船体に施された模様のことです。
着物などでも見られる柄で、TOP画像を拡大するとわかりやすいですかね。

船の横っ腹で菱のカタチに組まれた部分です。

復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用

当初、この菱垣廻船とは、「垣」の字から「柵」を連想しやすいからなのか、明治時代になってある誤解が生まれました。

「荷物が落ちないようについていた柵に菱垣模様が入っていた」という誤った解釈がされ、その説を採用している本や教科書が多くなってしまったのですね。
受験でそこまで問われることはないでしょうけど、覚えておくといいかもしれません。

単なる模様なので、機能的な役割はほぼありません。
「この船は幕府やお殿様の荷物も運んでますよ」とアピールする意味合いで設けられました。

もちろん、民間用の荷物も運んでいましたが、江戸時代の「幕府」や「お殿様」がいかに大きな存在だったかがうかがえます。

途中までは菱垣廻船と樽廻船の区別がないというか、「事情があって枝分かれした」という経緯があります。
時系列順に話していきましょう。

 

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大坂→江戸へ日用品を送ったのが起源

菱垣廻船の始まりは、元和五年(1619年)。
堺の商人が、紀州から250石積みの船を借りて大坂→江戸へ日用品を送ったのが起源だといわれています。もちろんこのときは菱垣模様ではなかったでしょう。

1石=大人1人が一年間に食べる米の量ですから、全てが食料品だったとしたら、「250人が一年食べていける分を積めるような船」ということになります。
そう考えると、結構大きな船ですね。

寛永元年(1624年)には、別の商人が江戸積問屋を開業し、さらに寛永四年(1627年)には他にも五軒の問屋が営業を始め、大坂菱垣廻船問屋が成立。
彼らによって菱垣廻船が作られ、運行するようになりました。

問屋自身が船を持っている場合もあれば、他から船を借りる場合もあり、運用方法は決まっていなかったようです。
現代でいえば、前者は商社が運送業まで一括して行う感じで、後者は業務委託に近いイメージですかね。

江戸の人口が増えるに従って、上方から送られる荷物も増え、菱垣廻船も繁盛していきました。

元禄七年(1694年)には大坂屋伊兵衛という商人が中心となり、菱垣廻船の持ち主・荷主が競技して「江戸十組問屋」が結成。
これまでバラバラに持っていた船は、この江戸十組問屋の共同所有となりました。

 

酒は腐りやすい 早く運ばなければならないのに

江戸十組問屋は海難時の処理や、喫水の確認=積載量の制限や管理なども行い、ここから本格的に菱垣廻船が動いていきます。

この辺で、菱垣廻船と樽廻船に分かれるような出来事がありました。
どちらかというと、「デカイ事件が起きて劇的に変わった」のではなく、「日頃の不満が積み重なって爆発し、変えざるを得なかった」という感じです。

その理由は、積まれていた荷物の種類にありました。

上方から送られていた荷物は、主に木綿や紙などの日用品、醤油や油・酢などの食品、そして酒でした。

このうち酒だけが、当時の事情で性質が異なっていたのです。

というのも、当時の酒はアルコール度数が低く、なまもの扱い。
クール便など存在しない時代ですから、できるだけ早く運ばないと傷んでしまいます。

しかし、酒だけで船倉を満たすのは難しいので、他の荷物も運ばないと、採算が悪くなってしまうわけです。

また、酒樽は重たいので、船の底の方に積まれることになっていました。

これらを総合すると、
「重さの関係で先に酒を積むのに、他の荷物を待たなければならないせいで傷みやすくなる」
という、酒の荷主にとっては実に腹立たしいことになります。

できれば酒だけを積んで、さっさと上方~江戸を往復し、効率と売上を向上させたいですよね。

 

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酒問屋が十組仲間から脱退して樽廻船を運行

さらに、酒の荷主は海難事故の際にも割を食っていました。

当時、船が嵐などに遭ってしまったときは、上のほうに積まれている荷物を海に捨てて、船全体を軽くして転覆を防ぐことがままありました。
ところが、上記の通り酒は船の下のほうに積まれているため、最後まで残りやすいのです。

「自分の荷物が無事ならいいじゃん」
と思ってしまいますが、港に着いた後が問題。
荷主の間で共同海損という仕組みが発生し、特定の荷主だけが大損しないよう、お金を出し合うことになっていたからです。

荷物を捨てられてしまった側からすると、少しでもお金が返ってきていいことなのですが……。

これが酒の荷主からすると
「自分たちの荷物は無事なのに、余計にお金を払わなければならない」
ということになるわけです。

まとめるとこうなります。

・酒の荷主は大事な商品が傷むかもしれない
・それによって売上も減るかもしれない
・そんだけ待たされて、さらには事故が起きれば他の荷主より損する

そりゃ、不満が膨らむのも当然のことです。

こういった違いから、享保十五年(1730年)に酒の荷主である酒問屋が十組仲間から脱退し、江戸積酒造仲間が中心となって、酒荷専用の船を独自に運航させるようになりました。

【樽廻船】の誕生です。

 

クール便と通常便がやっと分かれたような感じで

しかし、これで話は丸く収まりませんでした。

樽廻船とはいえ、酒樽だけで船室全てが埋まることはそうそうないわけです。船の持ち主としては、そういった余分なスペースも活用してもっと儲けたくなりますよね。
今までさんざん損してきているのですから。

そこで、樽廻船では
「菱垣廻船に積まれるような軽い荷物を、酒樽を積んだ余りのスペースへ格安で積む」
というサービスを始めました。

元々「なまものである酒を、傷まないうちに運ぶ」のが樽廻船なので、他の荷物も早く運べることになるわけです。

荷主からすれば安く・早く運べるので、願ったり叶ったりというところ。
おそらくは「江戸へ送りたいタイミングで船があるとは限らない」といったデメリットもあったかと思われますが、やはりメリットのほうが大きかったのでしょう。

かくして樽廻船が菱垣廻船の売上を圧迫し始め、両者で衝突が起きるようになります。

そこで明和七年(1770年)、酒問屋と他の問屋との間で話し合いが行われました。
あらかじめ、積み荷の種類を分けておくことにして、これ以上の紛争が起きないようにしたのです。

カテゴライズは、こんな感じでした↓

1 菱垣廻船・樽廻船のどちらでも積める七品目

・米
・糠
・阿波藍玉(染料)
・灘目素麺
・酢
・醤油(当時は”溜り”)
・阿波ろうそく

2 樽廻船だけが積めるもの一品目

・酒

3 菱垣廻船だけが積めるもの複数品目

・上記以外の商品すべて

クール便と通常便がやっと分かれたような感じでしょうか。
この住み分けが行われたのは、あの田沼政権の時代にあたります。




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田沼意次の株仲間公認に関する政策の一環として、海運業の整理も行われた、というわけです。

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