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宝永大噴火(1707年)と復興を妨げた火山灰の怖さ 富士山三大噴火の衝撃

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見目麗しき富士山――。

世界に誇るこの最高峰に【ドデカイ穴】が開いているのを皆さんご存知でしょうか?

宝永火口と言い、その名の通り宝永大噴火(1707年)で出来た火口。
上空から撮影した写真を見ると、

ご覧の通り、ぽっかりと穴が開いており、右側には新しい山ができたかのようにも見えます(実際に宝永山と呼ばれる)。

にしても凄まじい大きさですよね。
火口というからには、ここから火山灰などが噴出したわけであり、そうなると宝永大噴火が一体どんな規模だったのか、想像するだけでも戦慄してしまいます。

本日は、富士山の歴史的ポジションなども含め、宝永大噴火を振り返ってみましょう。

 

『常陸国風土記』にも『竹取物語』にも

富士山といえば誰もが知る日本の象徴です。

歴史的に見ても存在感は果てしなく大きく、遠く離れた『常陸国風土記』にも神話が出てきますし、『竹取物語』ではこんな伝説も残されているほどです。

「かぐや姫が残した不死の霊薬を、帝が『姫がいないなら無意味』として、富士の山頂で焼き捨てさせた。
だから、富士の頂からは今も煙が立ち上っている」

他にも源頼朝が建久四年(1193年)、富士山の裾野で巻狩を行っています。
このとき曾我兄弟の仇討ちによって「頼朝暗殺」の誤報が鎌倉へ届き、その時の反応が原因で源範頼(頼朝の弟)が幽閉後に不審死を遂げています。

また、室町時代には、室町幕府三代将軍・足利義満や、六代将軍・足利義教が武士や公家を率いて遊覧にやってきたことがありました。
「将軍の目は、京都から遠く離れた東国にも光っているぞ」と示すためのものでしたが、イメージ戦略に利用されるほど、富士山の存在が大きかったということにもなりますね。

平安時代には修験者の山という立ち位置にもなっており、登山もたびたび行われるようになっていました。

普通は、噴煙が上っているような火山に立ち入ろうとは思わないものでしょうが、いかんせん富士山の場合は上記の竹取物語の逸話がデキすぎていることと、噴火の周期がものすごく長いため、あまり警戒されていなかったようです。

 

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前後には列島で大地震も起きている

むろん富士山自体は、人類の歴史が始まる前から存在しています。
噴火も度々していたでしょう。

しかし、記録に残っているのはわずか18回。
その中で特に被害が大きいといえるのは3回です。

・延暦の大噴火(800~802年)
・貞観の大噴火(864~866年)
・宝永大噴火(1707年)

東日本の記録は、ある程度時代が下らないと正確性に乏しいところがあるので、他の15回の中にも、深刻な被害が出ていた可能性は否めません。

その辺は今後の研究に期待するとして、上記の期間をそのまま受け取れば、富士山大噴火の周期は数十年~900年規模という、かなり予測不能な幅になります。
宝永大噴火の後、2018年現在まで大規模な噴火をしていません。

不規則なために周期で予測できない一因にもなっているんですね。

あるいは東日本大震災と同質だとみなされることもある貞観地震(869年)と貞観の大噴火(864~866年)が近いから、現代においても注意すべし、という声もあります。この860年代は日本列島での地下の動きが活発化している【大変動期】に当たるというご指摘があるのです。

確かに見過ごせはしないでしょう。
【大変動期】では、以下のように貞観の大噴火前後でかなり大きい地震が頻発しています。

850年 M7.0 出羽地震
856年 M6-6.5 京都地震
863年 越中越後地震
864年 貞観の大噴火
868年 M7.0 播磨山城地震
869年 M8.4 貞観地震
878年 M7.4 関東地震(神奈川や東京を中心に揺れる)
880年 M7.0 出雲地震
881年 M6.4 京都地震

これを東日本大震災と比較してみましょう。

2011年3月 M8.4 東日本大震災
2012年3月 M6.1 千葉県東方沖地震
2012年12月 M7.3 三陸沖地震
2013年4月 M6.3 淡路島地震
2014年11月 M6.7 長野県神城断層地震
2016年4月 M7.3 熊本地震
2016年10月 M6.6 鳥取県中部地震
2018年4月 M6.1 島根県西部地震
2018年6月 M6.1 大阪北部地震
2018年9月 M6.7 北海道胆振東部地震

あらためて恐ろしい数の大地震。
かなりの規模の揺れが複数回に渡って発生しているのを皆さん身にしみていらっしゃるでしょう。

地震ごとの細かな関連性までは証明できないながら、列島全体が不安定になっている――それが大変動期であります。

 

100km離れた江戸でも長く降灰が続く

宝永大噴火は旧暦11月23日(現在の暦では12月16日)に最初の噴火。
12月8日まで2週間以上にわたって続き、噴煙は上空20km前後にまで達します。

距離にして100km離れた江戸でも長く降灰が続き、季節も相まって、
「まるで雪のように次々と降ってきた」
と伝わります。

例えば
・江戸 2~4cm
・横浜 8~16cm
の火山灰が降り積もったという記録があるほど(噴出物は7億立方メートルとも)。

現代でしたら、交通機関が麻痺する可能性は大いにあり得ます。
詳しくは後述しますが、さほどに火山灰は厄介な存在です。

宝永大噴火は、種類としては「マグマ噴火」となります。

一口に噴火と言っても大きく分けて三種類あり、以下のように分類されるんですね。

「マグマ噴火」
「水蒸気噴火」
「マグマ水蒸気噴火」

マグマ噴火は、火山の地下に溜まっているマグマ(溶岩)が吹き出し流れ出すものです。
一般的に「活火山」と聞いて思い浮かべるのはこれでしょう。

最近の例でいうと、ハワイ・オアフ島のキラウエア火山ですね。2018年にも大きな噴火があったばかりなので、ご記憶の方も多いはず。

この噴火では、流れたマグマが冷えて固まると、時に島同士を繋いだり、地形を大きく変えることがあります。

国内の例では、大正三年(1914年)の桜島噴火。
流れ出た溶岩によって鹿児島側と地続きになっています。

【関連記事】
桜島の大正噴火

溶岩によって大隅半島と地続きに!桜島の大正噴火から学ぶこと【その日、歴史が動いた】

厳密に言うと、マグマの粘土や火砕流の規模などで更に細かく分類されますが、ここでは割愛。

水蒸気噴火は聞き慣れないながら仕組みは結構シンプルです。

マグマが地下から噴き出そうとする際、途中で地下水などに接触、大量の水蒸気が噴煙となって吹き出します。
このときマグマが地表に出ずに水蒸気だけなら「水蒸気噴火」で、マグマ”も”地表に出てきたら「マグマ水蒸気噴火」となります。

例を挙げると、明治二十一年(1888年)の会津磐梯山噴火や、昭和四十八年(1973年)の西之島新島噴火が該当します。

宝永大噴火はというと、マグマ噴火の一種「プリニー式噴火」だと考えられています。
一夜にして街を火山灰で埋め尽くしたというイタリアのポンペイなどと同じタイプですね。

成層圏にまで達する噴煙と、中規模な火砕流により、火山近辺だけでなく広範囲にわたって被害を及ぼしました。

江戸時代には、宝永大噴火の他にも天明三年(1783年)の浅間山がプリニー式噴火をしていました。
田沼意次失脚の遠因になったとされます。

 

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知るも知らぬも おほかたは咳

宝永大噴火ではマグマはさほど流出せず、火災の発生件数は少なめでした。
不幸中の幸いと言えますが、降灰だけでも尋常じゃない被害が出ております。

たとえば、火山灰があまりにも長く降り続いたため、その地域はずっと明かりを灯さねばならず、燃料の価格が高騰しました。
当時は明かり=油を使うものですから、これだけでもかなりの経済的打撃です。暗くなったら寝るのが当たり前の時代とはいえ、昼間まで暗いと何もできませんからね。

また、風で煽られた灰が細かな塵となって舞い散り、それを吸った人々の呼吸器官を痛めました。
当時の様子を描いた狂歌に、こんなものがあります。

「これやこの 行くも帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳」

行き交う人が知人だろうと知らない人だろうと、誰も彼もが咳き込んでいた……という、リアルな光景が目に浮かびますね。

おそらくは、詠んだ当人も咳をしていたのでしょう。
百人一首にもある、蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れつつ しるもしらぬも あふさかの関」をもじったものです。

人だけでなく、農業への被害も深刻でした。

現代でも活火山の近くにお住まいの方はよくご存じかと思いますが、火山灰は一度降って終わり――ではありません。

大変なのは、むしろその後。
噴火が完全に収まるまでは灰が降り続いて日光を遮りますし、地面に灰が積もり、下手をすれば作物は全滅です。

しかも水を吸うと最悪。
非常に重くなって、簡単には取り除けなくなります。




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宝永大噴火では、火山灰が偏西風に乗って、主に富士山の東へ降っていきました。そのため駿河国駿東郡北部(静岡県東部)から相模国西部(神奈川県西部)での被害は甚大なものとなりました。

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