近松門左衛門/wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた 日本史オモシロ参考書

近松門左衛門と曽根崎心中 元は武士の出だった門左衛門がなぜ作家となったのか?

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江戸時代の初期~中期は、武士にとって大きな変化がありました。
戦国時代を武家として乗り切れず、他の大名家に仕えて生き残った人もいれば、そもそも武士ですらなくなった人もいます。

江戸時代の文化人として有名な【近松門左衛門(1653-1725年)】も、実は後者の流れをくむ人でした。

悲恋モノの傑作【曽根崎心中】の作者である彼は、いったいどのような生涯を送り、歴史に名を残したのか。
その生涯を追ってみましょう。

 

福井藩に仕えた父 母は侍医の娘

門左衛門の本名は、杉森信盛といいます。
戦国時代は浅井家など、父・信義の頃には福井藩に仕えており、門左衛門も福井で生まれたと考えられています。

母は福井藩主の侍医の娘で、弟も医者でした。
武士の家ではありますが、肉体派というよりは頭脳派なイメージが湧いてきますね。

門左衛門が10代の頃、いかなる理由からか、信義は福井藩を辞して京都に移り住みました。
もちろん、まだ独り立ちしていなかった門左衛門も一緒です。

京都では様々な公家に仕え、主を通じて文学に触れるようになった……と考えられています。
このあたりまでのことは詳しい記録が残っていないため、アヤフヤな表現になるのはご勘弁ください。

公家の間に人形浄瑠璃の愛好家が増えていたので、そこから門左衛門が著作側に入った可能性が高い、とされています。
また、当時の京都には評判のいい浄瑠璃語り・宇治加賀掾がおり、彼のために浄瑠璃を書くようになったとか。

 

転機は天和三年(1683年)『世継曾我』

実は当時、浄瑠璃や歌舞伎などの台本の書き手は、実名を書かないのがセオリーでした。
門左衛門の初期の作品も、ほとんどはそうだと考えられています。

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これが好評となり、浄瑠璃演者の間で、門左衛門の名が密かに知られるようになっていきます。
特に、大坂道頓堀で竹本座を旗揚げしたばかりの竹本義太夫がこの作品を名演したことで、作家としての仕事が軌道に乗り始めました。

門左衛門は、並行して歌舞伎・狂言の台本も書いていました。
次第に浄瑠璃に力を入れていくようになります。

そして、義太夫のために書いた最初の世話物浄瑠璃が、代表作でもある「曾根崎心中」でした。

 

「この世の名残、世も名残……」

「世話物」とは別に誰かのお世話をするお話のことではなく、日常生活……特に庶民の生活を描いた作風のことです。
現代ではあまり使われない意味ですが、辞書には載っていますので、覚えておくと役に立つかもしれません。

曾根崎心中の場合は、この年元禄十六年(1703年)の春に起きた、同地での心中事件がネタ。
既に歌舞伎でも、この事件を題材にした演目が行われていました。

現代であればネタかぶりはご法度……というか著作権問題に繋がりかねませんが、江戸時代では歌舞伎や浄瑠璃、あるいは小説などで同じネタを使うのはよくある話です。

他の有名な例だと
義経千本桜」
忠臣蔵
などが似たような感じですね。

義経千本桜/wikipediaより引用

曽根崎心中といえば門左衛門の書いた浄瑠璃――。

そんなイメージがついたのは、なんといっても最後の章である”道行”の
「この世の名残、世も名残。死にに行く身を例ふれば、あだしが原の道の霜……」
で始まる美しい文章ですね。

これにより、事の悲劇性を観客に強く印象づけました。

 

心中カップルが増えてしまった!?

「曾根崎心中」があまりにも見事な描写だったせいか。
この作品のせいで一時期、心中カップルが増えてしまったくらい。

門左衛門に責任はないにしろ、罪悪感は感じたかもしれません。
現代でも、不倫モノの小説がブームになったり、芸能人が不倫に肯定的ともとれる発言をして、実行してしまう人もいますしね。

門左衛門だけでなく、興行した義太夫にとっても、この成功は大きな転機となりました。
このあたりまで大きな借金を抱えていた義太夫は、曽根崎心中の好評によって一気に返済できるのです。

これを機に、義太夫は竹本座の座本(責任者)から撤退。
門左衛門は代替わりした座本とコンビを組んで、引き続き浄瑠璃を書き続けています。

大アタリを生んだことで収入も安定し、余裕ができた門左衛門は、新しい作劇法を始めることにしました。
心情描写により力を入れて、人によっては冷たく見えてしまう浄瑠璃人形に、より活き活きとした力を与えようとしたのです。

 

世話浄瑠璃と時代浄瑠璃

宝永二年(1705年)に書かれた『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』は、その代表格。
聖徳太子の父・用明天皇が、仏教の受け入れについて他の皇族と対立し、最後には勝って仏教を本格的に受け入れ、広める……という話です。

こういった歴史的な題材を用いたものは「時代浄瑠璃」と呼ばれます。
他に「平家女護島」「信州川中島合戦」などがあり、なんとなくタイトルで歴史モノという感じがしますね。

「平家女護島」「信州川中島合戦」は、義太夫の子・政太夫(二代目竹本義太夫)に書いたもの。
政太夫は情を細かく語ることが得意な演者で、近松もそれに合わせた作品を書いたといわれています。

台本に役者を合わせさせるのではなく、役者の持ち味を活かすような脚本を書くという方法ですね。

こうして、見事にヒット作家となった門左衛門でしたが、心中には多少の苦悩もあったようで…。

当時、台本の書き手は役者よりも下に見られており、貞享年間から作者名を表に出していた近松のほうが珍しいくらいでした。
実際、そこを中傷されたこともあります。

それでも名前を出すことにこだわったのは、覚悟と自信・自負の現れだったのでしょう。
ザッと次のような浄瑠璃作品がございます。

◆世話浄瑠璃
『堀川波鼓』
『五十年忌歌念仏』
『丹波与作待夜の小室節』
『冥途の飛脚』
『夕霧阿波鳴渡』
『長町女腹切』
『大経師昔暦』
『鑓の権三重帷子』
『山崎与次兵衛寿の門松(ねびきのかどまつ)』
『心中天の網島』
『女殺油地獄』
『心中宵庚申』

◆時代浄瑠璃
『用明天皇職人鑑』
『雪女五枚羽子板』
『傾城反魂香』
『百合若大臣野守鏡』
『碁盤太平記』
『大職冠』
『嫗山姥』
『国性爺合戦』
『平家女護島』
『津国女夫池』
『信州川中島合戦』

 

「特に賢いわけでもない、世の中のはみ出し者だ」

門左衛門は、最晩年にこんなことを書き残しています。

「私は代々武士の家に生まれたが武門を離れ、公家に仕えても取り立てられず、商才があるでもなく、特に賢いわけでもない、世の中のはみ出し者だ」

我々からすると「そこまで卑下しなくても……」と思ってしまいますよね。
世間からは好評でも、本人は満足していなかったのかもしれません。

あるいは、逆に「既存の生き方よりも楽しかったから、私は誰に何といわれても満足だ」と言いたかったのでしょうか。
……どっちもありえそうですね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「近松門左衛門」
近松門左衛門/wikipedia

 



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