歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

松平定信/Wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 江戸時代 その日、歴史が動いた

寛政の改革と松平定信~田沼政治の反動で質素倹約に走るも結局失速

投稿日:

八代将軍・徳川吉宗が行った【享保の改革】。

幕府の体制はおおむね良い方向へ変わりますが、その息子である九代将軍・徳川家重、孫の十代将軍・徳川家治あたりから、再び状況は悪化していきます。

将軍本人の能力やヤル気の問題というより、この時期新たな挑戦で四苦八苦していたからでした。

その一例が田沼意次の老中抜擢です。

意次自身は政治能力に優れた人で、実際のところ賄賂まみれの強欲家臣なんかじゃありませんが、当時は儒教的な価値観が非常に強い時代です。
ヒラ藩士の出身である意次の大出世は、それだけで大きな反感を買いました。

【関連記事】田沼意次

また、彼の行なった重商主義政策は、儒教的価値観からすれば拝金主義にしか見えません。

しばらくは将軍の信頼によって意次の独壇場が続いたのですが……度重なる天災への対応ミスと、徳川家治の死により意次は一気に没落。
幕府内では
「やはり血筋の良い人物に”正しい”政治をしてもらおう!」という考えが強くなります。

そこで登場するのが、松平定信・寛政の改革です。

 

おじいちゃんは八代将軍・吉宗

家治が亡くなると、当然ながら将軍も代替わりします。
生存している息子がいなかったので、御三卿の一橋家から徳川家斉が十一代将軍に就きました。一橋家当主・徳川治済の息子です。

「御三家との違いがわからないよ(´・ω・`)」
という方は以下の関連記事をご覧ください。

【関連記事】御三家と御三卿

実は松平定信も、御三卿の一角・田安家の出身で、吉宗の孫にあたります(将軍・家斉は吉宗のひ孫)。

徳川吉宗/wikipediaより引用

意次を気に入らなかったメンツからすれば
『徳川の手に政治が戻った』
とも思えたでしょうね。

さっそく、定信は”正しい”政治を行うために改革に乗り出します。

【寛政の改革】です。

定信が数年で失脚しているため、「大ポカした改革」というイメージが強い方も多いかと思われますが、少なくとも目的や理念はしっかりしていました。

寛政の改革の代表的な施策としては、棄捐令・人足寄場設置・寛政異学の禁などがあります。
一つずつ見て参りましょう。

 

スポンサーリンク

棄捐令 寛政元年(1789年)

天明四年(1784年)12月以前の借金を全てチャラ。
それ以降は幕府が決めた新しい利率でお金を貸すようにする――というものです。

パッと聞いた感じ、かなり乱暴な話ですよね。
鎌倉時代などの徳政令を思い出すかもしれません。

当然、金貸し(当時は「札差」)からすると大損ですが、それでも金を借りる武士が消えたわけではないので、廃業する者は少なかったそうです。
暴利がなくなって健全になった、というところでしょうか。

「そもそも、武士が借金をしなければならないのは何故なのか」
というところにメスを入れないと意味がないと思うのですが、それって後世の我々からの知見であって、当時はそう簡単には行かなかったでしょう。

なにせ武士の給料は米。
米は【銭】に替えなければ生活ができず、結局は【貨幣経済に支配される】という構造的な欠陥があったのです。

【享保の改革】のときには、金銀含有率の低下で通貨の価値を下げて、米の価値を相対的に上げる――なんてことが行われたほどです。

幕末になるとドコの藩も借金苦にあえぎ、逆に、財政が豊かなところほど米頼りではなく、自国の殖産興業、つまり商工業に長けたところでした。

 

加役方人足寄場の設置 寛政二年(1790年)

他の地域から流れてきた無宿者(ホームレス)や、軽犯罪者を収容し、社会復帰を促すための労働をさせる場所です。
現代で言えば、刑務所とかハローワークを合わせたような感じですかね。

これも単独の記事がありますのでので、詳しい話はこちらで。

【関連記事】実在した鬼平犯科帳の主人公・長谷川宣以(長谷川平蔵)

 

スポンサーリンク

寛政異学の禁 寛政二年(1790年)

「武士の気風を統一するため、朱子学以外の儒教を禁じる」
という内容です。

もう少し踏み込んで説明しますと、幕府関連の教育機関で朱子学を徹底させよう――というもので、全国的な命令ではありません。

また「異」の字が入っているため勘違いしがちですが、外国の学問=蘭学を禁じたものではありません。
なにせ、この時代の蘭学=西洋の学問は、自然科学や医学に関することが主体で、幕府が危惧するような政治的思想が薄かったためです。

禁令が出る一年前、1789年にはフランス革命が起きていますので、もしそういった自由的思想が入りそうだったら、定信も全ての西洋学問を排除したかもしれませんね。

ともかく思想の統一のために学問を制限する、というのは言論統制に繋がりやすいものです。

それを危惧した儒教の他の学派に属する学者たちは、この禁令に大反対しましたが、幕府は強行。
結果、朱子学以外の学派は廃れ始め、私塾をたたむ学者も出ました。

各地の藩についてはそこまで厳正な縛りがあったわけではないのですが、結局は、江戸に釣られるカタチで、徐々に朱子学が中心になっていきます。

ただし、御三家の一つである尾張藩や、井伊直政井伊直虎でお馴染みの彦根藩、あるいは東北の秋田藩では別の学派の儒学者を採用していました。
幕府からのお咎めはないので、定信の狙いは「幕府に直接関わる武士の思想統一」だったのでしょう。

 

尊号一件などを経て老中職を辞す

改革には含まれませんが、定信の時代には【尊号一件】という、朝廷と幕府のちょっとしたトラブルが起きています。

ときの帝・光格天皇が、父の閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)に太上天皇の尊号を贈ろうとして、幕府(主に定信)が異を唱え、朝幕関係が冷え込みかけた……というものです。

閑院宮家は、六代将軍・徳川家宣の時代に創設された、比較的新しい宮家。
血筋や歴史の長さを何より重んじる皇室では、傍系というか、格下にみられがちな立ち位置です。

しかし、他に皇位を継げる男子がいなかったため、光格天皇が選ばれました。そういった引け目もあって、光格天皇は父宮に尊号を贈ろうとしたのでしょう。

結果的に、光格天皇の義母にあたる後桜町上皇が、
「称号を送るより、貴方様の御代が長く続くことのほうが親孝行になりますよ」
と光格天皇を諭したこともあり、何とか収まっています。

このため、家斉が実父・一橋治済へ大御所の称号を与えようとしたときも、定信らの大反対で実現に至りませんでした。

「皇室にさえ例外を認めなかったのに、将軍家でそんなことができるか!」
というわけです。

光格天皇/wikipediaより引用

 

スポンサーリンク

改革自体の効果は大きくなく

その後、定信は寛政五年(1793年)7月、老中及び将軍補佐役を退くことになります。

権力的には大御所同然だった治済の心象を大きく損ねたこと。
改革自体が効果絶大ではなかったこと。

といっても、しばらくは「寛政の遺老」と呼ばれる重臣たちによって、似たような施策が続きます。

寛政の改革で行われたその他の項目は主に以下のようなものがあります。

・倹約せよ
大奥の出費おさえよう
・米価と物価の引下げ
・ぜいたく品は作っても売ってもダメ
・お酒造りは控えめに
・米を貯めよう
・妓楼の新設は禁止
・混浴禁止
・出版物の中身を見せろ
・医学館の官営化
・昌平坂学問所を設立

みなさんも同感していただけると思うのですが「特に大きく何が悪い」という感じもしないんですよね~。

実際、その後、白河藩で藩政を担ったときは善政を敷いて民にも好かれたという話もあります。
定信には、江戸幕府という舞台が大きすぎたのかもしれません。

長月 七紀・記




スポンサーリンク


【参考】
国史大辞典「寛政の改革」「棄捐令」「人足寄場」「寛政異学の禁」

 



-日本史オモシロ参考書, 江戸時代, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.