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柳沢吉保/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 江戸時代 その日、歴史が動いた

柳沢吉保57年の生涯をスッキリ解説!旧武田家臣の末裔はコミュ力で爆出世

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他の老中たちに妬まれることもなく

にしても凄まじいのは出世っぷり。
傍系とはいえ主家・武田の再興を申し出てて、しかも成功していることからして、吉保がやろうと思えば、もっと専制的な立場になることもできたでしょう。

しかし、彼は私利私欲のための政治的活動はほぼしません。

上記の加増にしても、吉保から綱吉にねだったものでもありませんし、一回の加増量も法外とはいえません。
そのためか、こういうケースでもっとも対立しやすい他の老中たちとも、比較的穏便な関係を築いています。

人の心の中はわからないので、もしかしたら、そういう「敵を作らずに所領や官位を得る」ことが目的だったかもしれませんが……その辺は下衆の勘繰りというものでしょう。

少なくとも、綱吉の吉保に対する信頼は、生涯揺るぎないものでした。

綱吉は早いうちに跡取り息子を亡くしており、その後も男子に恵まれなかったため、甥にあたる甲府徳川家の徳川綱豊(家宣)を養子に迎えています。

徳川家宣/wikipediaより引用

そしてその後、空いてしまった甲府城主の座を、綱吉は吉保に与えました。

この時点での甲府は、徳川氏にしか与えられない特別な土地です。

例外にしてまで吉保を後任にしたのは、彼の政治的能力が評価されたからに他なりません。

 

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江戸からの指示も評価は悪くない

吉保は綱吉の期待によく応え、家中に新しい法度を作ったり、良い藩政を行うよう努めました。
彼自身は甲府に行くことはありませんでしたが、江戸から指示を出し、おおむね高い評価を得ていたようです。

藩主としての吉保は、
・甲府城や城下町の整備
・検地の実施
・用水路の整備
・実質的な減税政策
などを行っています。

また、武田信玄の百三十三回忌法要を営み、甲府住民にとっての旧主を重んじる姿勢と、自分がその末裔であることを強調しています。

現代人の感覚だと「そんな昔の人のことを大事にしても意味ないじゃん」と思ってしまいますが、この時代の一般人は「地元のお殿様」に対する好印象が強ければ強いほど、後任者への風当たりが強くなります。

甲府城稲荷櫓

甲府でいえば、綱豊(家宣)はもちろん、武田信玄も慕われていました。
彼らを軽んじてやりたい放題やろうとしても、うまくいかないわけです。

しかし、吉保自身が旧武田家臣の血を引いていますから、これは大きな武器になりました。

詳細は不明なものの、吉保の側室には公家出身の女性がいたと考えられており、彼女らを通じて公家や朝廷との付き合いもしていたとか。
そつがないというか、人との距離感を保つのがうまいというか……全て計算尽くだったとしたら、空恐ろしいほどのコミュ力です。

 

引き際もまた見事なり

吉保は綱吉の引き立てで一気に出世した人ですから、綱吉が亡くなれば後ろ盾を失うことになります。
大体の場合、そういう立場の人は見苦しく居残ろうとして政争に敗れ、悲惨な末路をたどるケースが多いですよね。

しかし、彼は引き際も見事なものでした。

綱吉が亡くなって二ヶ月後。
徳川家宣が無事に将軍職を継承したことを見届けてから、吉保は自ら隠居を願い出ているのです。

息子の柳沢吉里が家督を継ぎましたが、幕閣の一員になろうとはせず、甲府藩の内政に力を注ぎました。

後に吉宗の時代になってから大和郡山藩へ移封されていますが、吉里に落ち度があったわけではなく、前の藩主だった本多氏(忠勝の末裔)が断絶したからでした。

吉里とその子孫はこの地に根付き、無事に幕末まで続いています。
総じて、吉保とその子孫は「分をわきまえて行動する真面目な一族」だったといえるでしょう。

ここからは私見ですが……。

徳川綱吉は儒学を重んじ、出自や上下関係を大事にしていた人です。
それでも吉保のように、元の身分が高くない人をこれほど取り立てたのは、他の幕閣や下の人間にハッパをかける意図が多少あったのかもしれません。

さらに、綱吉が気に入った&学問の面でもウマが合うという好条件と、吉保自身の能力がかみ合い、異様なほどの加増をするにふさわしいと認めた人物だったのではないでしょうか。

吉保自身、それがわかっていたからこそ、驕り高ぶることなく、下手に敵を作らずに済むよう行動していたのでしょう。
うまく行き過ぎていて知名度とイメージが弱いですけれども、それが真の保身とも言える気がします。

 

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六義園に感じられる気品や好み

享保九年(1714年)。
東京・駒込の六義園(りくぎえん)で柳沢吉保は息を引き取ります。

享年57。
六義園は、彼の別荘でした。

六義園

都心にある紅葉の名所として知られていますので、現地を訪問された方もおられるかもしれません。

吉保の時代から手が入れられているとはいえ、一代で成り上がった人らしからぬ気品というか、成金趣味みたいなものが全くないところです。
庭については吉保自ら工事を采配したといわれていますので、彼の人柄や好みもうかがえるかもしれません。

都心にも意外と「元大名屋敷」な紅葉スポットがあります。

六義園を皮切りにいろいろまわってみるのも、ちょっとした社会科見学で楽しいかもしれません。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「柳沢吉保」
柳沢吉保/wikipedia(→link

 



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