日本と清が朝鮮を狙うところをロシアが横から……という著名な風刺画/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

日清戦争のややこしい流れをスッキリ解説! 清の指揮官ポンコツ過ぎ!?

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金玉均の近代化軍に従来の旧式軍がブチ切れ!→壬午軍乱を起こす

一方、閔妃の夫である高宗は、さすがにもう少し現実が見えており、近代化を急ごうとします。
しかし、幼いころに即位してずっと大院君の院政状態だったので、あまりにも近臣に味方が少なすぎました。

高宗と同じく近代化を進めたい金玉均という官僚は、
「近場で近代化を成功させた日本に学ぼう」
と、実際に留学もしていたのですが。

しかし、政治が良い方向へ固まる前に、朝鮮国民の堪忍袋の緒が切れるようなことが起きます。

金玉均/wikipediaより引用

金玉均らが学んできたことを元に、朝鮮の軍も近代化を始めていました。
装備や練度はもちろん、待遇も比較的良かったようです。
しかし、元から豊かとはいえない財政状態で近代化を進めるため、旧式軍の予算を近代化軍に使ってしまいました。

大院君派の旧式軍からすると
「なんで伝統を守ってきた俺達が苦しい思いをしているのに、新参者の作ったアヤシイ軍が高待遇なんだ!」
としか見えません。そりゃそうだ。

政府はこれをなだめるために、旧式軍にも給料を払いました。
が、なんとこれは13ヶ月ぶりの支払いだった上に、本来支給されるべき米の半分は途中の役人にちょろまかされ、糠(ぬか・皮などの部分)に変えられるというヒドさ。

耐えに耐えてきた旧式軍はついにブチキレ、【壬午軍乱】という内乱を起こしてしまいます。

 

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閔妃が泣きつき清が3,000の軍を出兵

同じく苦しめられていた庶民たちも旧式軍に合流し、宮殿を襲撃。
当時軍事顧問として渡海していた日本の担当者もブッコロされるという惨事に発展してしまいました。

外国で自国民が殺されれば、当然政府は抗議をするものです。
それが原因で国際戦争になることも珍しくありません。

さらに、ここでも閔妃と大院君の動きが最悪の方向に作用しました。
壬午軍乱の黒幕は大院君だといわれています。このとき、閔妃を追い出して政権に復帰したのです。

閔妃も黙っていません。
彼女は清に対して泣きつきました。

「ウチの国、ならず者たちのせいで大変なことになってしまったんです~……清帝国様のお力でお助けください!」

清も既に列強諸国に切り取られてボロボロでしたが、近場かつ千年単位で子分にしてきた国にまでナメられたくないので、軍を出すことに……。

このとき3,000の兵を送ったのが袁世凱でした。
近現代史ではたびたび出てくる名前なので、何となく見覚えのある方も多いのではないでしょう。

ここで日本が朝鮮と清に対し「待った」をかけます。

日朝修好条規で「朝鮮は独立国だから、今後何かあったとしても、清が助けるのはダメ」ということになっていたからです。
そして日本からも1,500人の兵が壬午軍乱の収集をつけるために渡海したのですが、既に大院君が返り咲いて事を収め、さらに清の軍も到着してしまっていたので、どうにもできませんでした。

後に中華民国の大総統として知られる袁世凱/wikipediaより引用

 

清は【北洋艦隊】で日本にプレッシャーをかけてきた

清を味方につけた閔妃は再び大院君を締め出し、今度こそ権力の私物化を図ります。
自分の親戚ばかりで高官の座を埋め、清に頼り切る道を選んでしまったのです。

「そんなことばかりしていれば国が危くなる!」
と危惧した金玉均らは、どうにかして近代化路線を復活させようと考えます。

しかし政争でもクーデターでも閔妃一派に勝てそうにないので、日本を頼ろうとしました。

一方、この時点では日本も軍事的な手は出せませんでした。
この頃、清は【北洋艦隊】という新たな艦隊を作り、露骨に日本対策をしていたからです。

北洋艦隊の母港である威海衛湾内/wikipediaより引用

この艦隊の旗がまた興味深いデザインをしています。
日本の象徴ともいえる日輪を、中国皇帝の象徴である龍が飲み込もうとしている図案なのです。

しかも黄色=皇帝の色という徹底ぶり。
「中華思想を捨てるつもりなんて、これっぽっちもありません!」と大声で叫んでいるも同然ですね。
その強気、アヘン戦争の前に出しておけばよかったと思うのですが……まあ、イギリス国旗は丸のみできないというか、刺々しくて喉や食道に突き刺さりそうですが。

北洋艦隊旗 photo by Sodacan /wikipediaより引用

ここでまたややこしくなるのが、当時清がやっていた別の戦争である清仏戦争です。

平たくいうと「ベトナムを巡る清とフランスの戦い」でして、清は海戦で壊滅しており、早急な対応が必要でした。
そのため、朝鮮に送っていた清軍のうち1,500人を引き揚げさせ、いざというときベトナムへ送れるように備えたのです。

清の実質的な君主・西太后としては
「北洋艦隊をベトナムへ行かせなさい!」
と言っていたのですが、当の北洋艦隊のトップ・李鴻章が「ウチの艦隊は対日軍なんで、あんな遠いところまで出せません」と断っており、その代わりに朝鮮駐留軍を半分持ってきたというわけです。

 

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金玉均がクーデターを図って日本へ出兵を要請

これを見た金玉均は、日本へ
「今なら清軍が減っていますから、クーデターを起こせます! 協力してください!」
と連絡。

しかし日本は渋い顔をします。
「清軍はまだ1,500もいるし、もしかしたら清仏戦争もスグに終わるかもしれない。
李鴻章もどうするつもりだかよくわからない。北洋艦隊だってすぐに朝鮮まで来られる。
こっちだって余裕ないのに、今、朝鮮に手を出して大損するわけにもいかないワケで……」

これが1884年の出来事です。
西南戦争からわずか7年。日本は憲法(大日本帝国憲法)すらできていなかった頃の話でした。
そりゃ、他国に手を出してる場合じゃありません。

しかし、朝鮮にいた日本の担当者がテキトーな返事をしてしまい、藁にもすがる思いの金玉均は見切り発車のクーデターを敢行してしまうのです。

金玉均は、一時、閔妃一派の締め出しに成功したものの、清の袁世凱が軍を派遣したため、たった3日で失敗。命からがら日本へ亡命します。
せめて高宗を連れていければ政治的な勝ち目もありましたが、それもできずに終わっています。

このクーデターを【甲申事変(政変)】といいます。

ちなみに金玉均は、甲申事変の翌年に李鴻章との交渉のため、清に渡ったとき暗殺されてしまいました。
妻子は後に、偶然、日本に保護されたといいます。

なお彼は、朝鮮を私物化したいとかではなく、清・日本との協調体制を整えて欧米に対抗したい――という意欲を持っていたとされ、残念な結果となってしまいました。

 

天津条約を結び、日清による朝鮮不介入を同意したが……

この後しばらく、日清両国は静かな政争を重ねます。
とはいっても、実質的には互いに軍備のための時間を稼ぐ目的だったでしょう。

1885年には、日本と清の間で甲申事変の事後処理として【天津条約】を結びます。
ざっくりいうと「今後、日本も清も朝鮮半島に対して軍事的な介入はしない。もしやむを得ず介入しなければならない場合は、互いに相談すること」という内容です。

しかし、清は軍拡を進めて日本を威圧することに腐心しました。
だから、なぜそのやる気をアヘン戦争の前に……(ry。

なけなしのお金を使って最新式の戦艦「定遠」「鎮遠」をドイツから購入し、北洋艦隊に配置。
さらに1886年に、これらの船を長崎まで補給名目で見せびらかしに来ています。

清の戦艦「定遠」/wikipediaより引用

ついでと言わんばかりに、長崎の町でこれらの船の乗員たちが暴行事件まで起こしました。

ここでコトが大きくなれば、自慢の大砲をぶっ放されて長崎が町ごと崩壊してしまうかもしれない。
また、清の目的もこの時点では開戦ではなく威圧のため、イギリス人及びフランス人の弁護士を間に挟んで和解しました。

 

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決して日本から一方的に仕掛けたわけじゃない

実はその後も、北洋艦隊はたびたび長崎にやってきます。

日本史の授業ではそこまで習わないため、日清戦争も日本が仕掛けていった――そんな単純な印象も拭えないのですが、決して一方的ではありません。

北洋艦隊としても、威圧と念押しが目的だったのでしょう。
しかしここでまた、西太后の行動が裏目に出てしまいます。

当時、西太后は自分の還暦祝いなどに多額の国費をムダ遣いしており、そのせいで北洋艦隊のメンテナンスができないほどになっていたのです。
その状態でも長崎に来た上、「清はまだまだスゴイんだぞ^^」と主張するために日本の要人を戦艦「定遠」に招き、あまつさえ船内の見学までさせました。

後に自沈した「定遠」/wikipediaより引用

そのせいで定遠のボロボロっぷりどころか、構造や船員の練度の低さまで日本にバレてしまいます。
なぜ清側の人間は誰も止めなかったんですかね……。
遣隋使の頃から「日本人は、一度興味を持ったら隅々まで知りたがるし、多少の手間は惜しまない民族」だというのに、それをすっかり忘れていたようです。
まあ、その頃の中国と清じゃ民族が違うんですけれども。




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このときの日本としては
「いずれ清と戦争することになりそうだけど、今のままじゃ全く勝ち目がない。どこからでもいい、とっかかりになるポイントを探さなければ!」
と思っていたところでしたから、定遠見学はまたとない機会だったでしょう。

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