スターリングラード攻防戦/wikipediaより引用

ロシア

スターリングラード攻防戦で死者200万人なぜヒトラーはナポレオンの二の舞を?

全員が名誉ある自決を?

ウラヌス作戦によって枢軸軍は20~25万人もの兵士が置き去りにされ、スターリングラード攻略はますます難しくなります。

彼らを救出するため、12月12日には「冬の嵐作戦」が展開されました。
ドイツ語だと「ウンターニーメン・ヴィンターゲヴィター」という感じに聞こえます。

ちなみにウラヌス作戦はロシア語で「アペラーツェ・ウラン」みたいな発音です。ドイツ語もロシア語も舌噛みそうですよね。日本語の二つの母音の中間みたいな発音も多いですし。

作戦の内容としては「ソ連軍があんまりいないスターリングラードの背後から近づいて、友軍を救出しようね!」(超訳)というもの。
あと一歩のところで救出成功というところだったのですが、取り残されていたほうの指揮官が「ここを死守しろと命令されているので逃げたくありません!!」と頑なに主張しているうちに、ソ連軍がやってきてしまいます。

ここで戦車同士の激戦が始まり、冬の嵐作戦は失敗に終わりました。

年が明けて1943年1月には、ソ連軍から枢軸軍へ降伏勧告が出されました。

しかし、枢軸軍司令官は軍使の訪問すら拒否し続けました。ちょび髭が「全員の名誉ある戦死」を望んでいたからです。一部の技術者だけ救出しているあたりが実にせせこましいですね。

人間不信で有名なソ連の髭でさえ、有用な部下であれば前科を問わないこともあったというのに、忠実な部下をわざわざ死なせるちょび髭ときたら……。この辺が勝敗を分けた最大の原因かもしれません。

 

少なく見積もっても市民60万人には達している!?

その後、チョビ髭は枢軸軍司令官フリードリヒ・パウルスを元帥に昇格させ、さらに”味方に”プレッシャーを掛けましたが、現場ではもう限界でした。

パウルスは昇格の翌日にソ連軍へ「司令部の投降」を申し出て、ちょび髭の命令を守ったことにします。とはいえ、2月2日には最後まで抵抗していた軍団も投降したので、たった2日間のことでしたが。
かくして多大という言葉ですら生ぬるいような数の犠牲を払って、スターリングラード攻防戦は終わりました。

枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連軍は約120万人。

スターリングラードの住民に至っては、60万人いたうちの約59万人がいなくなってしまいました。
逃げたり連行された人もいたので、59万人全てが亡くなったわけではないのですが、最低でも20万人は犠牲になったと考えられています。

現在の日本の人口で例えると、東京都渋谷区に住んでいる人が全員亡くなるくらいの人数です。
これでも想像がつきませんが。

捕虜となったドイツ軍は推定10万人を超える/Wikipediaより引用

 

超巨大「母なる祖国像」が立っている

現在、スターリングラード改めヴォルゴグラードには、この勝利を記念して「母なる祖国像」という巨大な像が立っています。

本体の女性像だけで52m、その手に持つ剣の長さは33mという大きさです。
アメリカの自由の女神像が本体33mですから、あれよりもデカい&自由の女神と同じ高さ(長さ)を持っていることになります。

グーグルマップでも写真を見られるのですが、思わず「デカっ!?」と叫んでしまいました。

この像の付近には、スターリングラード攻防戦の立役者たちが埋葬されています。

スターリングラードを死守した司令官であるワシーリー・チュイコフや、この戦いで40日足らずの間に225人ものドイツ将兵を射殺したスナイパーのヴァシリ・ザイツェフなどが有名です。

最近では、個々の兵士たちの行方を突き止めようという試みもされています。といってもまだまだ少なく、旧ソ連兵の兵で名前がはっきりわかったのは、2万人にも届いていないようですが……。

長い時間が経っても、遺族やその子孫にとって死者の行方がわかるというのは一つの区切りになりますから、一人でも多く判明することを願いたいものです。
これも、どこの国でも同じですね。

長月 七紀・記

【参考】
スターリングラード攻防戦/Wikipedia
ロシアNOW

 



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