大山捨松/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

大山捨松の激動人生~家老娘→帰国子女→社交ダンサー→敵(大山巌)の妻

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帰国後、まさかの薩摩の嫁に!

ちょうどそのころ薩摩の大山巌は、最初の妻・沢子を亡くして困っているところでした。

大山巌/wikipediaより引用

家庭のことを任せられる女性が必要というのもありますが、当時、政府は西洋風の社交界を作ろうとしているところだったため、パーティーに連れて行ける奥さんが必要不可欠だったのです。

これについては沢子の父(巌にとっては舅)吉井友実もいたく心配していて、方々で候補者を探していました。

しかし、巌は当時、軍での責任も重くなり始めていて、ドイツ語やフランス語で交渉に当たることもあったため、同等の語学ができる女性が必要。
当然ながら、そんな人、国内に何人もいません。

こうして捨松に白羽の矢が立ちます。

山川家では一瞬喜んだものの、かつての敵が相手と聞くや態度が激変。

「敵のところへ嫁に行くなんてとんでもない!!」
と大反対を食らいます。

特に山川浩は、会津若松城への砲撃で妻を亡くしていましたので、許せないのは無理もありませんでした。

しかし、それでも大山巌は諦めません。

 

「お人柄を知らず、結婚するともしないとも」

実は巌は、その以前、別の結婚披露宴で捨松を見ておりました。

ダンスを披露した彼女の姿に巌はベタボレ。
その他の条件を鑑みても、日本に二人とおらず、ただでは引き下がれません。

鹿鳴館時代の捨松/wikipediaより引用

巌は、親友の西郷従道西郷隆盛の弟)に間へ入ってもらい、粘り強く交渉します。

そしてようやく「そこまで言うなら、あとは本人の意思次第で」というところまでこぎつけました。
たぶん、兄の浩としては、捨松が自分と同じように「昔のこととはいえ、敵に嫁ぐなんてとんでもない!」と答えることを期待していたのでしょうね。

が、西洋文化を身に着けて「老いては子に従え」どころか若い頃から親にも兄にも従う気のなかった捨松は、浩の想定外の返答をしました。

「お人柄を知らないのに、結婚するともしないとも言えません」
と言い、直接会って話すことを望んだのです。

今で言えばお見合いの後の「お二人でごゆっくり」をさせてくれというところですかね。デートほど砕けてはいなかったでしょうし。

 

鹿鳴館で披露宴 1,000人以上の招待客

こうして当人同士で会うことになったのですが、当初は巌の薩摩弁がきつすぎて会話がままならなかったとか。

そりゃあ薩摩と東北じゃ、まるで外国語のように聞こえるかもしれませんよね。

しかし、お互い留学経験があるため、英語で話し始めるとたちまち意気投合したといいますから面白い話です。
想像するとなかなかシュールですが、結果オーライということで。

ルイ・ヴィトンの最初の日本人顧客であり、自他共に「西洋かぶれ」と認めていた巌と。
「アメリカ娘」の捨松。

二人はすぐに惹かれあい、捨松は三ヵ月後アリスへの手紙で
「家族に反対されても、巌さんと結婚したい」
と意思をハッキリさせています。

出会うきっかけはお見合いに近いですが、実質的には恋愛結婚に近いですね。

二人はできたばかりの鹿鳴館で披露宴をし、1,000人以上もの招待客が詰め掛けたそうです。

既にドレスや西洋式のマナー、そしてダンスに慣れていた捨松は、その後も鹿鳴館で行われる欧米の外交官達と鮮やかに渡り合ってみせます。
日・独・英・仏の四ヶ国語全てを冗談が言えるレベルで話せる女性なんて、当時の日本には捨松以外いなかったでしょう。

いつしか人々は捨松を「鹿鳴館の花」と称えるようになり、「アメリカ娘」と蔑む者はいなくなりました。

 

子供に「ママちゃん」と呼ばせる

その後、捨松は今までの不遇を取り戻すかのごとく、日本初の看護婦学校の設立や、かつての留学仲間である津田梅子が大学を設立する際の支援をするなど、積極的に活動しました。

学校設立時の資金難にあたっては日本初のチャリティーバザーを開き、大きな収益を上げています。
このときもジョークと話術が生かされたようなので、もし彼女が実業家になっていたら……と考えるのも面白いですね。

ここまでバリバリ働いていたとなると家庭のほうが心配になってきますが、捨松はそちらについても器用にこなしていました。

巌との間には息子二人と娘一人が生まれており、先妻の娘三人からは「ママちゃん」と呼ばれるなどうまくやっていたそうです。ハイカラなお家ですね。

大山巌と捨松夫妻/wikipediaより引用

小説『不如帰』に出てくる意地悪な継母のモデルが捨松とされていたため、彼女を悪妻と勘違いした人もいましたが、お約束の脚色です。

全く違う人物にするなら、作者が「モデルがいる」なんて言わなければいいだけの話のような気がするんですけども。

作者・徳冨蘆花が謝ったのは発表から19年後(捨松が亡くなる直前)になってようやくだったそうで、いい迷惑だ。

 

インフルエンザで死亡

晩年の捨松は巌に先立たれた後、公の場から退いて静かに暮らしていました。

旧友・梅子と女子英学塾(現津田塾大学)の危機には駆けつけたものの、落ち着くと同時に当時世界中で流行っていたスペインかぜ(インフルエンザ)にかかり、そのまま息を引き取ります。

スペインかぜは第一次大戦終結の遠因にもなったともいわれるほどの凶悪なA型インフルエンザでしたから、58歳という(当時の)老齢にさしかかっていた捨松の免疫力では抵抗しきれなかったのでしょう。

長く苦しまずに済んだこと、先立たれていた息子に早く会えたことは不幸中の幸いだったかもしれません。

気の合う夫と連れ添うことができ、留学で学んだことを活かしきり、母としても立派に子供を育てた捨松です。
大河ドラマの記事を書いていたとき「大山捨松を見たい!」という意見をたびたび見かけたんですが、その理由が分かった気がします。

ぜひとも実現化しませんかね。

大山捨松公爵夫人/wikipediaより引用

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
大山捨松/wikipedia

 



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