大塩平八郎/wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

大塩平八郎の乱 あっさり半日程度で鎮圧されたのはどうして?

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天保八年(1837年)の2月19日、大塩平八郎の乱が起こり一瞬で鎮圧されました。

この乱が起きたキッカケは江戸四大飢饉のひとつ「天保の大飢饉」です。

今回は本題の前に、江戸時代の大飢饉とそれに呼応する出来事からマトメておきましょう。

 

江戸四大飢饉と対応する事件まとめ

1、寛永の大飢饉(1640年~1643年)

三代将軍・徳川家光の時代
→いろいろと禁止して武士が貧乏になっていく

2、享保の大飢饉(1731年~1733年)

八代将軍・徳川吉宗の時代
→サツマイモが救荒作物として奨励される

3、天明の大飢饉(1782年~1788年)
十代将軍・徳川家治の時代
→御所千度参り(京都御所の周囲を人々が回る)

4、天保の大飢饉(1835年~1839年)
十一代将軍・徳川家斉~十二代将軍・徳川家慶の時代
→大塩平八郎の乱 ※今日ここ

おそらく試験に出る時はセットで語られたりするでしょうから、一緒に覚えておくと効率もよく、点数にもつながるんじゃないかと思います。

 

景気悪いときにさらに消費減らすって中世かよ!→現代も?

さて、本題です。
江戸時代は上記のように飢饉が頻発していたわけで、これに対して幕府の対策は基本的に「質素倹約!」一点張りでした。

米がダメになったときでも採れる作物の奨励とか、あまりしていなかったのです。
サツマイモは一時広まりましたが、全国で餓死者を防ぐほどの割合ではありませんでした。

まぁ確かに、毎日、焼き芋とかふかし芋とか大学いもを食えと言われたらちょっとキツイですもんね。米より日持ちしませんし。

まだ科学が発達していない時代というのも影響しておりました。

天明の大飢饉のときは「田沼意次が悪政をしたから」という迷信が信じられていたくらいですから、「もう悪いヤツはいないんだから飢饉は起こらない!」と考えられていたのかもしれません。それにしては反省しなさ過ぎですが……。

天明と天保の飢饉の間は50年も開いていません。
もしかすると両方経験した、運悪く生命力の強い御仁もいたかもしれませんね。

 

建物を壊しても人には危害を加えない

こうした幕府のダメっぷりに対し、庶民ができることといえば二つに一つ。

お上のいうことを聞いて耐え忍ぶか。
裕福な商人を襲う「打ちこわし」をするか。

となれば実力行使に出てもおかしくなく、天保の大飢饉の際にも、当然、打ちこわしは頻発しました。

この頃は米の【買占め・専売】によって荒稼ぎをした強欲商人もたくさんいたので、襲われてしまうのもある意味自業自得なんですけどね。

ただし、あくまで抗議行動の一つなので、「建物を壊しても人には危害を加えない」という最低限のルールが定められており、放火もご法度でした。
もし打ちこわしの度に放火までしていたら、江戸だけでなく京都や大阪でももっと火災が増えていたでしょう。

しかし、ルールがあるとはいえ庶民の我慢にも限界があります。

天保の大飢饉の際は特に【天下の台所・大坂】での被害が大きく、毎日、数百人もの餓死者が出る有り様でした。

しかも理由の一つが「大坂より江戸が大事なんで、この米は江戸に送りますね。皆さん頑張ってください^^」というお役所仕事のせいだったというのですから始末に負えません。

「だめだこいつあ、早く何とかせねば」
と考えたのが、元役人の大塩平八郎でした。

 

「地元が困ってるやろ」「決まりなんでぇ」「プチッ!」

彼は現役時代からクソ真面目な役人として知られておりました。
引退後は自力で陽明学を学び、私塾を開くなど、徹頭徹尾お堅い人物であります。

陽明学とはものすごく簡単に言うと「人間は元々良い性質を持っているんだから、勉強してもっと良い人になろうね!」という考え方です。

朱子学の「王様や世間のルールは絶対!身分制度バンザイ!」という主義に真っ向から反論するもので、当然、幕府にとっては面白くないものでした。
どちらも大元は儒学なんですが、これだけ解釈の違いが出るのも面白いですね。

平八郎が朱子学よりも陽明学を選んだのは、もしかしたら「仕事はちゃんとやるけど幕府は気に入らん」という理由だったのかもしれません。
引退後ならなおさらのことです。

ですが、さすがにいきなり突撃するワケではなく、平八郎は現役時代のツテを辿って
「地元が困ってんのに江戸を優先すんのはおかしな話とちゃうか」
と意見を申し述べました。

それに対して返ってきたのは「江戸に送ることになってるんで」というテンプレ通りの返答。
ついに彼とその門下の人々はブチキレます。

元々、朱子学嫌いが集まっていたところですから、お役所主義に対抗したくなるのもごく自然な話ですね。

 

嫁と離縁して決起じゃあ!

平八郎は、まず自らの蔵書を売り払って資金を作り、貧しい人々の救済を始めました。
が、とても追いつきません。

やむなく武装蜂起も辞さぬ――という方針に変えていきます。

決起の前には家族が罪をかぶることのないよう離縁、家財を売却することによって武器防具の類を調えたそうです。
まさに決死の覚悟ですね。

しかし、この緊迫した状況に耐えられなかったのか、それとも最初からスパイが入り込んでいたのか。
この決起は実行直前に当局へバレてしまいます。

平八郎たちは当初の計画を変更せざるを得なくなり、実際のドンパチは半日程度で鎮圧され、40日ほど逃げ回ったあと自決に至りました。
養子と共に火薬を使っての爆死を選んだ平八郎は、死後、顔の判別もつかないほどだったそうです。

爆死というと戦国時代の松永久秀を彷彿とさせますが、大塩平八郎親子も同じ死に方をしていたとは意外ですね。性格と経緯は全然違いますが。

 

生真面目を通り越して厳格過ぎたのかも

内通者についてはハッキリしたことがわかっていません。
もしかすると平八郎の性格についていけないと思った人が耐えかねて寝返ったのかもしれません。

というのも、平八郎の性格が生真面目どころではなく厳格すぎたという話がいくつも伝わっているのです。

・学者仲間の頼山陽からは「君は短気すぎるから刀を持ち歩くのは止めたほうがいい」(意訳)と忠告された
・朝の五時から講義を始めていた
・しかも講義のときは門下生が目を合わせられないほど怖かった

等々、普通の人なら一つだけでも逃げ出したくなるような特徴をいくつか兼ね備えていたというのですから、途中でイヤになった人がいても不思議ではありません。

事を成すためには、お金や家族だけでなく人心掌握も大切だということですね。

長月七紀・記

【参考】
国史大辞典
大塩平八郎/wikipedia

 



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