桓武天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

桓武天皇と平安前期~どうして遷都ほか様々な改革を実行できたのか

投稿日:

平安時代の特徴は、一言では表しにくい。
時代を3つに区分して考えるとわかりやすい。

そんな記事を以下の通りに記しましたが。

平安時代の特徴とは?約400年もの長期スパンは3つに区分してみよう

平安前期において最も重要な存在が桓武天皇でしょう。

桓武天皇は、天智天皇のひ孫にあたります。
天智天皇と言えば、大化の改新(乙巳の変)で中臣鎌足(藤原鎌足)と共に政変を成功させた人物として有名です。

が、奈良時代の後半は天智天皇の弟・天武天皇の系統で皇統が引き継がれており、若い頃の桓武天皇は皇位を継げる立ち位置ではありませんでした。実際、官位も低めだったのです。

それがどうして天皇となり、平安京への遷都など、様々な改革を実施できたのか?
桓武天皇と平安前期を見てまいりましょう。

 

最初は長岡京へ遷都するも藤原種継が殺されて……

宝亀元年(770年)8月、桓武天皇の父である白壁王が皇太子になり、その年の10月に即位しました。
光仁天皇の誕生です。

その息子である桓武天皇は、四年後に皇太子となるのですが、この時点で既に36歳。
当時の平均寿命からすると後半生というか、「あと何年生きられるかなー」みたいな頃合いです。

幸い健康を保ち、天応元年(781年)に父の光仁天皇が病気になったため、44歳で皇位を継承できました。

しかし、即位早々に天武天皇の子孫である氷上川継(ひがみの かわつぐ)の謀反事件や凶作、流行病などが相次いだため、改元し長岡京への遷都を行っています。

早い話、厄払いですが、その後も留守中に寵臣で藤原種継(藤原式家)が射殺される事件が起きるなど、不幸は続きました。
さらに、皇太子で桓武天皇の弟である早良親王が、種継暗殺との関連を疑われて廃位されてしまいます。

この早良親王の一件が桓武天皇の背中にのしかかりました。
彼は疑いをはらすためハンガーストライキを実施し、それが淡路へ移送される途中で亡くなってしまい、桓武天皇もその祟りを恐れるようになるのです。

当時の価値観では、民衆が「良くないことばかり起こるのは、上に立つ者に徳がないからだ。そんな天皇に従う必要はない」と考えてしまうことも珍しくありません。
そのため桓武天皇は、再び遷都し、早良親王の祟りと民衆の不信を払拭しようとします。

現代からすると「幽霊とか信じてんの?w ダッセwww」となるかもしれませんが、当時はガチでそういうものが信じられておりましたので。いましたからね
まぁ、平安京に移ってから栄えていくわけですし、結果オーライだったかも。

 

スポンサーリンク

民に優しい政治は一歩間違えれば軍事的に危うかった

その後も宮中で「台風で壊れた建物の下敷きになって牛が死ぬ」などの凶兆がありました。
桓武天皇は丑年生まれだったので、不吉極まりないと感じられたようです。

当時、牛を殺して祀るという民間信仰があり、それまで禁じているくらいですから、相当ナーバスになっていたのでしょう。

こうした遷都のアレコレに隠れがちですが、健児(こんでい)制の導入も後世に大きな影響を与えています。
どういうことか?

桓武天皇以前の時代は、一般庶民から兵を徴用していました。
これは働き手を奪うことに繋がるので、当然庶民の負担は大きくなります。
ただし、その代わりに租(この場合は米で収める税)と雑徭(ぞうよう・公共工事に参加する義務)を半分免除するという仕組みになっていました。

桓武天皇はこれに対し「庶民から働き手を取るのをやめて、地方役人の子供に軍事的な仕事をさせよう。百姓にも少しは協力してもらうけど、武芸の得意な者だけにする」としました。
これが健児制です。

しかし、健児は多いところでも200人ぐらいしかいなかったので、事実上この頃の日本は軍がないにも等しい状態でした。
人口が少なかったからというのもありますが、もっと極端な言い方をすれば軍事力のない政府=何かあった時に対応できない無政府状態にも等しかったわけです。

日本が島国だったこと、この時期に外部からの侵略を受けなかったことの恩恵が実感できますね。
もしこの段階で元寇のようなことが起きていれば、一時的に他国から制圧されていた可能性も否めないでしょう。

 

征夷大将軍や検非違使、関白などを定めた

他にも桓武天皇は、律令制と呼ばれる当時の法律の穴埋め職として【令外官(りょうげのかん)】を定めるなどし、新しい世の中を作る努力を惜しみませんでした。
令外官の中には、征夷大将軍や検非違使、関白など、後に歴史上の重要人物が多く就いた役職も含まれています。こちらは後日あらためて解説させていただきます。

また、式家の流れをくむ藤原緒嗣と、百済王家の子孫である菅野真道(すがのまみち・菅原道真じゃありません)に、より良い政治のための意見を募りました。

そこで緒嗣は「軍事と都の工事で民が苦しんでいるので、直ちにこの二つを取りやめるべきです」と主張。
真道は異を唱えましたが、桓武天皇は緒嗣の意見を容れて軍事と工事を取りやめました(この両者の議論を徳政論争と言います)。

ただ、その後に蝦夷討伐を三回やっているんですよね……これ、どういうことだってばYO!

ちなみに、二回目の討伐で活躍したのが、かの有名な坂上田村麻呂です。
そのときはまだ補佐役でしたが、三回目の討伐で征夷大将軍に任じられました。
桓武天皇としては四回目も計画していたようですが、やはり緒嗣の反対で取りやめています。

坂上田村麻呂/Wikipediaより引用

 

スポンサーリンク

多くの皇子が誕生 臣籍降下で桓武平氏も興る

桓武天皇は後継者の確保にも力を注ぎ、多くの皇子をもうけました。

もうけすぎて臣籍降下した人も多く、息子たちは主に平氏となって桓武平氏に続き、娘達は他の貴族に嫁いで血を繋げています。
前者の子孫は平清盛の正室・時子、後者の子孫は在原業平などです。あまりに数が多すぎてここでは書ききれません……が、興味のある方は系図をたどってみると、意外なところで繋がっていて面白いですよ。

もちろん、皇室に残った人もおり、しばらく皇位継承問題は起きずに済む……はずでした。

しかし、そうは問屋が卸さないのが世の常というもの。
桓武天皇の次に即位した平城天皇が、弟の嵯峨天皇に譲位した後も実権を握り続けようとしたことで、骨肉の争いが起きてしまいます。

前述の藤原種継の娘・薬子が絡んでいたため【薬子の変】と呼ばれている政争です。
最終的には嵯峨天皇方が勝ち、平城天皇の復位とはなりませんでした。

また、薬子が藤原氏の中でも式家と呼ばれる系統だったため、この乱以降の式家は没落同然になっていきます。
代わって、後に道長らを輩出する藤原北家が台頭していくことになるわけです。
この辺、歴史の繋がりを実感できますよね。

 

薬子の変後は藤原式家が没落し、北家が台頭する

桓武天皇の話はここまでですが、その先の平安前期も確認しておきましょう。

薬子の変の後は、嵯峨天皇の下で、藤原北家の冬嗣が土地課税を重視した政治を執り行いました。
冬嗣の息子・良房も同じ路線を引き継ぎます。

良房は権力の集中化を図りました。
その代表例が【応天門の変】という他家排斥事件です。

平たくいうと「気に入らないヤツを皇居放火の犯人にでっち上げて、島流しにした」という身も蓋もない事件です。
軍事衝突ではなかったとはいえ、あまり穏便な手段とはいえませんね。こういう流れは、日本史で何回か出てきますけれども。

しかし、権力者とは自分の思うように行っていれば、乱暴でなくなることも多いものです。

応天門の変以降の良房と嵯峨天皇の時代は「貞観の治」と呼ばれ、後の政治の見本と称されるようになります。
「天皇親政の理想形」とみなされることもありますが、実権はほとんど良房にあったので、むしろ「摂関政治の例」といえるでしょう。




スポンサーリンク


あるいは「天皇の政治関与が薄まり、祭祀王としての性格を固めた時期」とみなすこともできるかもしれません。
こうして藤原北家(以下「摂関家」)に権力が集中していきましたが、他の家の人も全くいなかったわけではありません。

次のページへ >



-飛鳥・奈良・平安時代, 日本史オモシロ参考書, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.