紫式部日記絵巻/Wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

平安中期の特徴マトメ~道長は関白になっていないし強権の独裁者でもない!?

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息子の頼通に代替わりして実権を握り続ける

道長は、娘婿である一条天皇が病気となり、三条天皇(冷泉天皇の皇子・一条天皇のいとこ)に譲位すると、外孫である後一条天皇を一日でも早く即位させるべく、嫌がらせを繰り返します。

元々丈夫な質ではなかった三条天皇は、目を患ったこともあり、5年で後一条天皇に譲位。
かねてからの望み通り、道長には摂政の地位が与えられるのです。

三条天皇は譲位する条件として、自分の皇子である敦明親王を東宮にすることを道長に了承させていたのですが……敦明親王は道長の権勢に抵抗することは得策ではないと考え、東宮の地位を自ら降りました。
道長はこれを高く評価し「小一条院」の称号と娘・寛子を献じて優遇しています。

皇族であっても道長と真っ向から対立することができないのですから、その他の貴族は言わずもがな。

道長は太政大臣に任じられ、すぐに辞して息子・藤原頼通の後見をすることで実権を握り続けます。

藤原頼通って、その後どうなったん? 父の道長がジャイアン過ぎて、頼通、意外とイイ人説

というのも、このころ道長は既に50代になっていたため、後々のことを考えていたのでしょう。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

この「望月の歌」を詠んだ宴会の話はその後のことなんですけれどね。

道長自身の日記である「御堂関白記」にこの歌のことが書かれていないのは、建前上謙虚に振る舞ったのか、良心の呵責なのか、酔いが冷めて恥ずかしくなったのか、どれでしょう。

まあ、御堂関白記は「筆者の自筆本と写本が現存している」という稀有なものの割に、誤字脱字や意味不明な記述が多すぎてアレな存在なので、道長にとって、実は「望月の歌」は大したものではなかったということなのかもしれません。
史料的な価値の高い日記や文学は、他にたくさんありますしね。

 

死の直前、阿弥陀如来像の手と自分の手を糸で結び

道長は、望月の歌を詠んだ翌年には出家して、晩年には莫大な資金を投じて法成寺を建立しています。

このときは、道長に引き立ててもらおうとする人々がこぞって工事に協力したとか。
ホント、いつの時代も人間のやることは変わりませんのぅ。

そして道長が亡くなったのは、万寿四年12月(1028年1月)。
以前から糖尿病にかかっていた疑惑が濃厚ですが、もちろん死因などは明記されておらず、死の数日前には背中にできた腫れ物のせいで苦しんだといわれています。

藤原道長は糖尿病!? 貴族の頂点に立つも「欠けた月」が見えなかった可能性あり

……しかし、亡くなる直前の様子が
「法成寺の東にあるお堂から橋を渡って、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入った後、
九体の阿弥陀如来像の手と自分の手を糸で繋ぎ、
北枕に寝て、僧侶たちと一緒に念仏を唱えながら往生した」
というものだったので、何ともコメントに困ります。

阿弥陀様もさぞかし困惑したことでしょう。
最期の最期まで、自分の思い通りに生きた人といえます。

 

道長のような絶対的権力者は意外と続いていない!?

しかし、こうした一連の出来事も、道長本人のあつかまs……もとい、度胸とゴリ押しと手腕があってのこと。

道長の子孫は「御堂流」と呼ばれ、その子孫だけが摂関の座に就き続けましたが、道長ほどの権勢を手に入れた人物はいません。

これは、道長の長男・藤原頼通と、その異母弟・藤原能信の対立、そして能信が庇護した後三条天皇が積極的に親政に臨んだことに依ります。

その辺の細かい経緯はこちらで↓。

後三条天皇が藤原道長一派(摂関家)の政権卍固めを取り崩す! そしてバトンは白河天皇へ

さらに、後三条天皇の息子である白河天皇は、譲位した後【院政】を初めました。

これにより、現職の天皇の後ろ盾は摂関家ではなく、前代の天皇(上皇・法皇)という形が確定します。
そこからまた別の問題も生まれるのですが……この続きはまた次回としましょう。

なので、藤原道長による絶対的権力って、意外に短いんですよね。
平安時代の貴族は、やたらと藤原氏ばかり目立ち、常に絶大な権力を維持し続けたかのように思えますが、身内の権力闘争も激しいというワケです。

 

文化面では日本固有の生活様式が育つ

さてこの時代、文化面では、遣唐使が廃止されてからここまでの時期に中国文化の影響が薄れ、【国風文化】が花開いていました。

ひらがな・カタカナによってより多くの人が文字を読み書きしやすくなり、和歌や文学が大きく発展したのです。
わかりやすいところでは、和歌で「花」という言葉を出したときの意味が変わっていることです。

これ以前の時代は「花=梅」だったのですが、国風文化のあたりから「花=桜」となりました。
この辺についてもまた日を改めるとしましょう。

他には、十二単や狩衣束帯といった衣服や寝殿造など、日本固有の生活様式が育っています。

また、西暦1000年頃に【末法思想】が広がったこともあって、一般市民にも仏教が馴染み深いものになったのが平安中期だとされています。

末法思想とは、「お釈迦様の正しい教えが意味をなさなくなり、お先真っ暗な世の中になってしまう。だからより一層念仏や造像に励み、救いを求めなければ!」という考え方のことです。

興味深いことに、ヨーロッパでもなぜか「西暦1000年にこの世が終わる!」という考えがあり、同じような空気が漂っていました。
結果として西洋も東洋も滅びることはなかったわけですが、この頃の人達がどこからか同じ電波を受信していたかのようです。

11~12世紀にはキリスト教で東西教会の分裂(大シスマ)が起こったり、日本では武家政権(幕府)が生まれたり。
それまでの政治や社会制度を揺るがすような出来事がありましたので、ある意味それまでの「この世」が終わったといえなくもありませんが。

長月 七紀・記

【参考】藤原不比等の息子たちによって興された藤原四家(ふじわらしけ)
・藤原武智麻呂→藤原南家 ※藤原仲麻呂(恵美押勝)
・藤原房前→藤原北家 ※藤原冬嗣・藤原時平・藤原道長
・藤原宇合→藤原式家 ※藤原百川・藤原種継・藤原薬子
・藤原麻呂→藤原京家 ※マイナー・藤原浜成

参考:国史大辞典「藤原道長」「国風文化」「平安時代」 平安時代/wikipedia

 



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