小松姫/wikipediaより引用

徳川家 真田家 その日、歴史が動いた

小松姫(稲姫)はコワモテ母ちゃん?忠勝娘にして信之妻の強烈エピソード

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元和六年(1620年)2月24日は、真田信之の正室・小松姫が亡くなった日です。

戦国時代の女性としては、濃姫織田信長の妻)やお市の方(信長の妹)、淀殿(豊臣秀吉の側室)の次ぐらいに有名でしょうか。

戦国系のゲームでもお馴染みですし、大河ドラマ『真田丸』では吉田羊さんが演じたことで話題になりましたね。
それだけに、創作とされるエピソードも多いのですが……まあ細かいことは気にせず、その辺も取り混ぜて、生涯を見ていきましょう。

 

戦国最強武将・忠勝の長女

小松姫は、天正元年(1573年)に本多忠勝の長女・長子として生まれました。
父ちゃんは、立花宗茂と並んで戦国最強武将と囁かれますね。

将来の夫である信之とは7歳差です。
当時としてはちょうどいい年齢差でしょうか。

きょうだいには、もり姫、本多忠政、本多忠朝がいます。
忠勝の跡継ぎたちの姉ということも、勝ち気なイメージの元になったのかもしれません。

小松姫の幼い頃は於子亥(おねい)とか稲姫(いなひめ)と呼ばれ、歴史に登場するのは、やはり信之との結婚がキッカケです。

天正の頃(1580年代)にバチバチと対立していた【徳川家&真田家】の和解を図るべく、小松姫と信之(当時は真田信幸)の結婚が決まりました。

事の経緯と、結婚した年にはいくつかの説がありますが、婿選びの際の逸話が有名ですかね。

 

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結婚相手候補たちの髷を掴んで顔を確認した!?

それはこんな話です。

父の主君である徳川家康が、家中の若い将たちを集め、小松姫に相手を選ばせようとしました。
そのとき彼女は一人一人の髷(まげ)を掴んで顔を上げさせて確認した……というものです。

なぜ皆が黙ってされるがままになっていたのか?
というと、小松姫が家康の養女として嫁ぐことになっていたからです。

その中で信幸一人だけが違う対応をしました。

「無礼な」と叱咤し、鉄扇で小松姫の顔を打ったのです。

真田信之/wikipediaより引用

小松姫は信幸の気概に感動し、結婚を承知した……とされていますが、これはさすがに^^;

どっちもどっちですし、当時の常識的にヤバイので、創作でしょうね。

そもそも、信之と小松姫の結婚は真田家と徳川家の和解のためですから、結婚相手を選ぶ意味も必要もありません。

後述する関が原でのエピソードと合わせて、
「小松姫は自分の意志をきっちり持っている女性だった」
ということを強調するためのものかと思われます。

個人的には、大羽快先生の『殿といっしょ』4巻の巻末おまけ漫画の流れを推したいです。

こちらはぶっ飛んだ描写で有名な作品ですが、時折じんわり温かい話になっているのが隠れた魅力だと思います。

 

上方で正室の仕事を担っていた

次に小松姫の動きがわかるのは、菊姫(武田信玄の娘にして上杉景勝の妻)や他の大名の正室たち同様、小田原征伐の後です。

豊臣秀吉が諸大名の妻子を上方に住まわせるようになってから、小松姫も上方に来ていました。

この頃、信之の正室としての仕事を受け持つようになったと思われます。
それまでは、真田信綱の娘(清音院殿)が信之の正室でした。

しかし、清音院殿はずっと沼田にいたので、家康の養女である(とされる)小松姫のほうが上方向きとされたのでしょう。
他に何か差し障りがあったかもしれませんね。

こう書くと、いかにも打算だけで小松姫が上方に来たような感じになってしまいますが、夫婦仲は決して悪くなさそうです。

信之の子供のうち、少なくとも二男二女は小松姫が産んでいるとされています。
長男・信吉は清音院殿生まれ説もあるのですが、大事なはずの長男の生母がハッキリしていないって、うーん……(´・ω・`)

 

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昌幸&信繁親子を沼田城の前で追い返す

そんなわけで、秀吉時代以降は上方にいたとされる小松姫。
関が原のときには沼田城での逸話が伝わっています。

この話は文献でも人名がはっきり書かれていないので、学者先生方の間でも意見が分かれているようです。
それを踏まえた上で、有名な逸話をご紹介しましょう。

関が原の戦いの前、小松姫の夫・真田信之と、その父・真田昌幸&弟・真田信繁は袂を分かちました。
いわゆる「犬伏の別れ」というやつで、これは真田信繁(真田幸村)の記事にお譲りしますね。

真田幸村(真田信繁)45年の生涯をスッキリ解説! リアルの幸村はどんな武将だった?

ともかく自分の旦那は、父&弟と敵味方になった。

そんな折、敵となった真田昌幸が上田城への道すがら、沼田城へ立ち寄り、小松姫に対し「孫の顔を見たいから中に入れてくれ」と頼みます。

しかし、小松姫は不審に思い
「いくら義父上でも、殿のお留守中に勝手に入れる訳にはいきません」
として断ります。

昌幸が城を乗っ取るつもりでいた――それを小松姫が見抜いていたと伝わるものです。

「昌幸はおとなしく引き下がったが、夜になってから小松姫は子供たちを連れて昌幸の陣を訪れた」
「侍女に宿を案内させた」
というパターンもありますね。

沼田城跡にある鐘楼

結婚のエピソードと同様、全てが事実とは信じがたいところであはります。
「小松姫は花も実もある女性だった」ということを強調するために、語り継がれてきたのでしょう。

この時期、小松姫は上方で人質になっていた可能性もありますし。




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小松姫は割ときっちりけじめをつけるタイプだったようで、一度敵対したからといって、いつまでも義実家を敵対することはありませんでした。
関が原の後、夫とともに昌幸・信繁に仕送りをしており、武家の人間らしい切り替えを見せています。

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