絵・富永商太

織田家 その日、歴史が動いた

「京都御馬揃え」は織田家の戦国大パレード!信長の狙いは何だった?

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義昭に圧力をかける狙いもあったのかも?

さて、ここで久々にワタクシめのトンデモ仮説をご披見いただければと思います。
この馬揃えの目的についてです。

イヤな予感のした方は他の記事へどうぞ。

この馬揃えは「正親町天皇へ譲位を迫るための脅しだった」なんて話もありますが、信長の皇位簒奪説については多方面で否定されております。

それよりもっと脅迫できそうな人物がいませんか?
そうです。ここより遡ること四年前、大内氏のもとへトンズラした足利義昭です。

義昭は京都を追い出され、実質的に室町幕府は滅んでいたものの、未だ征夷大将軍の位にありました。
近畿以西では義昭派の大名も少なからず存在していたといいます。

そして、義昭は兄である剣豪将軍・足利義輝に勝るとも劣らない筆マメであり、京都を出る前から方々の大名に手紙を送り、信長包囲網を敷かせていたのは割と有名な話です。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

もし、この時点でも義昭が信長との対決を諦めておらず、あちこちの大名に働きかけて、打倒織田家の動きを見せていたとしたらどうでしょう?

信長は、この頃には全国を制覇するつもりだったでしょう。

そんな場面で、将軍義昭の名の下に「打倒信長!」とされたら、さすがに厄介。
そこでこの馬揃えによって義昭を精神的な面から威圧し「オメーの席もうねーから!!」と諦めさせる意味があったのでは……?

中国地方の攻略は、相手が強大な毛利です。
色々とプレッシャーをかける必要性も痛感していたに違いありません。

 

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信長が譲位を迫る理由はなく

式年遷宮や儀式など。
信長はそれまでにも正親町天皇はじめ朝廷には、財政面で支援をしておりました。

天皇としても織田家の武力は重々承知していたはずですから、今さら脅す必要がありません。

譲位の件についても信長が迫ったという確実な記録はなく、正親町天皇が高齢や病気を理由に申し出たものの、他ならぬ信長が反対した――という説もあります

織田信長は皇位を狙っていた!の噂は本当か? 主な説4本を検証してみる

世の中には「難しく考えすぎて迷宮入り」になっちゃう事柄は案外多いもの。

もしかすると信長は「あっちこっちにウチの兵力を見せ付けてやったし、天皇も喜んでるし一石二鳥!」とご満悦で、正親町天皇は「これなら心強い!信長に任せておけば次代も安心じゃ!」と大喜び……なんて単純な話だった可能性も大いにアリでしょう。

正親町天皇/wikipediaより引用

こればっかりは当時にタイムスリップして二人の頭の中を覗かない限りはっきりしませんから、なんとも言いがたい話ですが。
もうちょっとアテになる史料が出てきたらいいんですけどねえ。

ということで、最後に京都馬揃えのメンバー(並び)を列挙して本稿の終わりとさせていただきます。

 

◆京都馬揃えの陣容

一番部隊……丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島一宣
二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺大ガ塚・佐野衆
三番部隊……明智光秀・大和衆・上山城衆
四番部隊……村井貞成・根来衆・上山城衆
織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包(のぶかね)・織田信孝織田信澄・織田長益・織田長利・織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎
公家衆……近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資
旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・一色満信・小笠原長時
九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆
十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・前田利家・金森長近・原政茂
十一番部隊……お弓衆百人(平井久右衛門と中野一安が先導)

長月 七紀・記




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【参考】
信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか

 



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