飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

薬子の変って実はインパクトでかっ!藤原北家の大天下が始まった

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造宮使という名目で平城京へ送り込む

嵯峨天皇も朝廷の面々も、さすがに平城上皇の遷都宣言にはびっくり仰天でした。

そこで、急ぎ、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上(き の たうえ)らを造宮使という名目で平城京に送ります。
この冬嗣が、藤原北家の人であり、同家の隆盛の始まりともなった人です。

配下を平城京へ送り込んだ嵯峨天皇は遷都を断固として拒否し、伊勢・近江・美濃の国府と関を封じて、藤原仲成と薬子の官職を剥奪しました。さらには、平城上皇派と見られた文室綿麻呂(ふんや の わたまろ・蝦夷討伐における田村麻呂の戦友)を処罰します。
その上で、坂上田村麻呂を大納言、藤原冬嗣を式部大輔、紀田上を尾張守に任じるのでした。

こうした嵯峨天皇の動きに、平城上皇は激怒します。
しかしなぜか「東国で挙兵する!」などと言い出し、薬子を連れて東へ向かおうとするのです。

これが、どうにもフシギでして。
言うまでもありませんが、平城京は現在の奈良、平安京は京都です。東を目指そうとすると地理的に追っ手に捕まりやすいのです。

というか、もしかしたら上皇はリスクを全く考えてなかったのかもしれません。
なぜかと申しますと悠々と輿に乗って逃げようとしているのです。
緊迫感の無さ、どんだけ~(´・ω・`)

平城天皇、悠々輿に乗って関所で捕まる/日本史ブギウギより

本気で逃げたいなら、船で西国へ向かう方がまだ望みもありそうなんですけどね。

嵯峨天皇は当然、平城上皇の東下を防ぐべく、坂上田村麻呂に追っ手を命じます。
と、田村麻呂が「武術に長けた者が一人でも多くほしいので、文室綿麻呂を赦免していただけませんか」と願い出ておりますから、なかなかの交渉上手ですね。

ともかく信頼する田村麻呂の奏上でもありますし、事が一刻を争うだけに、嵯峨天皇はその願いを聞き入れ、綿麻呂と田村麻呂は平城上皇派を追いました。

そしてその日の夜に、まず藤原仲成は射殺されるのでした。
ゴルゴ並に仕事早すぎです。

藤原仲成は射殺されて終了/日本史ブギウギより

 

薬子が平城天皇をたぶらかしたとイメージ固まる

一方の平城上皇と薬子は、大和国添上郡田村(奈良県奈良市大安寺町付近)に差し掛かったところで道が封鎖されていることを知り、平城京へ戻ります。

全てを諦めた2人は、平城上皇が剃髮して出家し、薬子が毒をあおって自殺。
事ここに至って、復位計画は頓挫しました。

ところで、こうした動きでなぜ「薬子の変」と呼ばれるのか。ご存知です?
事件のあらましを見ていると、むしろ平城上皇のほうが……と思えません?

実はこの一連の事件、当初は「薬子が平城上皇をたぶらかしていたせい」と考えられていたためです。

彼女が具体的にどう動いたのか、その記録はあったのか……といったことはサッパリわかりません。

薬子が娘を差し置いて平城上皇とイイ仲になり、桓武天皇に追い出されたという過去がありましたので、おそらくその辺から来ているのでしょう。
イメージってコワイデース。

まぁその辺はともかく、事後処理として、嵯峨天皇は平城上皇の息子である高岳親王を皇太子から廃し、自分の弟である大伴親王(後の淳和天皇)を立てました。
さらに乱の一週間後には「弘仁」と改元し、政治的安定化に務めております。

 

冬嗣&良房で藤原北家のターンがリーチ目!

嵯峨天皇は「大事になる前に解決できた」という点から、平城上皇派について厳罰を課すつもりはなかったようです。

十五年後に平城上皇が崩御したとき、淳和天皇の名で関係者の赦免が行われているのですが、これは嵯峨上皇の要望だったとされています。
存命中の人物を解き放つのはもちろん、兄への供養という面があったのかもしれません。

こうして仲成と薬子の実家である藤原式家は没落、だいぶ地味な存在になってしまいました。
これ以降、式家で名を成すのは、藤原純友の乱を平定した藤原忠文(873-947年)くらいでしょうか。※藤原純友は藤原北家

鎌倉時代には公卿(従三位以上のエライ公家)が出ていますが、それも285年ぶりという点だけで、歴史に大きく残るようなことはしていません。

一方、冬嗣の北家は皆さんご存知の通り。
「娘を入内させて次次代の天皇の外戚になる」という形態を続け、文字通り、並ぶものなき権勢を誇るようになりました。
あるいは、その息子・藤原良房とセットでその流れを確定したとも言えるかもしれません。

いずれにせよ道長が「欠けたることもなしと思えば」という「望月の歌」を詠めるほどの立場になったのも、彼一代のチカラではなく、こうしてご先祖様たちが足場をシッカリ固めていたからなのです。

その栄華の程は凄まじく、明治維新の時点で137家あった堂上家(天皇の日常生活の場である清涼殿に上がれる家柄)のうち、なんと93家が北家の流れをくんでいました。
公家だけでなく武家になった家を含めればもっと増えます。

血筋という意味において、藤原北家は日本の支配者といえるかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤原式家/Wikipedia
藤原北家/Wikipedia

 



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