徳川頼宣/Wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

徳川頼宣の豪気が熱い!御三家・紀州藩祖は謀反疑惑も笑って「めでたい!」

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松平忠吉(3月5日)に続きまして、本日も徳川家康の息子に注目です。

慶長七年(1602年)3月7日、徳川頼宣が誕生しました。

後に御三家の一つ・紀州徳川家の初代となる人物であり、八代将軍・徳川吉宗のジーチャンでもあります。

男の子では上から数えて10番目なので、いい加減扱いがテキトーになるかと思いきや、家康の猫かわいがりときたら現代人からするとドン引くレベル。

頼宣の数え2歳にして水戸20万石をやるわ、同5歳で元服させて駿府に50万石をポンポンあげるわ、その気前の良さを結城秀康(次男)とか松平忠輝(五男・伊達政宗の婿)にも分けてやればよかったのに(´・ω・`)

当コーナーは織田信忠・結城秀康・松平忠輝を全力で判官びいきです!

 

猫かわいがりと同時に家康自ら武術も仕込む

とはいえさすがにただ甘やかすだけではなく、隠居後も手元に置いたのは自ら武術を仕込むためだったという見方もあります。

その一つに「頼宣が落馬して水に落ちても、家康は助けず放置した」という話がありまして。

ソレ、家康が昔、織田信長にやられたのと同じでないのん?とツッコみたいところです。
ついでに泳ぎも教えるつもりだったんでしょうか。
※織田信長は水泳が得意でした

生まれが遅かったので、頼宣の初陣は大坂冬の陣となります。
このときも家康の思い入れっぷりは凄まじく、初めて鎧をつける儀式【鎧初め】を自らの手で行ったそうです。

このとき同じく初陣だった徳川義直(頼宣の一つ上の兄で御三家・尾張藩の藩祖)についてはそういう話が伝わっていないので、やはり頼宣をひいきしていた節があります。

一つしか違わないのにこんなに違う扱いをされて、よく義直がグレなかったものです。
義直えらい、超偉い♪

 

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「頼宣の発言こそ手柄である!」

頼宣(と義直)は無事に初陣を終え、半年後、大坂夏の陣で二度目の戦に臨みました。

このとき頼宣は「先陣はぜひ私に!」と名乗り出たのですが、まさか家康の息子(しかもまだ中学生)を最前線に出すわけにもいかず、希望は聞き入れられません。

頼宣はよほど悔しかったのか。
涙を流して訴えたといい、そのあまりの剣幕に重臣が「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありましょう!」となだめたにも関わらず「私の14歳が2回あるわけではなかろう!」とますます機嫌を悪くしたとか。

これを聞いた家康のコメントがまた、もう猫も逃げ出すくらいの可愛がりようです。

「頼宣の言うことはもっともだ! 今の発言こそ手柄である!」

ここだけだったら普通に賞賛の言葉なんですけどね。

普段の甘やかしっぷりを知ってしまうと、もうただの与太話にしか聞こえないのが何とも……。

 

清正の娘・八十姫と幸せな結婚生活を

ですが頼宣は頭もキレる人だったようで、父の寵愛を楯にするような言動はしませんでした。

加藤清正の娘・八十姫(やそひめ)との結婚生活も順調でした。

元和三年(1619年)に和歌山へ移封された後も、藩を豊かにするべく力を注いでいます。

現在、和歌山県は愛媛県と並んでみかんの生産地として知られていますが、そのきっかけは頼宣だったそうですよ。
もともと和歌山で栽培されていたのを、頼宣が「うまい!!」(テーレッテレー♪)と大絶賛し、税を免除してまで生産を支援したとか。

「自分の好物を世に広めようとした」と考えると、ちょっと可愛いですね。
もちろん実利的な理由が大きいでしょうけども。

他にも和歌山城や城下町の整備をしたり、優秀であれば浪人でも召抱えて人材を充実させたりと、かなり熱心に領国経営へ取り組んでいます。

 

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私の名前で謀反とはめでたい!

しかし、まだ戦国の気風が残る世の中では、さすがの頼宣も一生順風満帆にとはいきませんでした。

ときは移って慶安四年(1651年)、甥っ子の三代将軍・徳川家光が亡くなった後の話です。

将軍位そのものは無事四代・徳川家綱に受け継がれたのですが、このときまだ11歳。
当然ながら自分だけで政務を行うことはできません。

このスキを狙って、家光までの時代に改易などの理由で増えていた浪人たちが「幕府ひっくり返そうぜ!」と良からぬことを企てます(1651年 由井正雪の乱)。
結局バレて大事には至らなかったのですが、事件の首謀者達がよりによって頼宣からとされる手紙を持っていたのです。

さぁ大変!
人材の出自にこだわらなかったためこんなことになるとは、頼宣自身も思っていなかったでしょう。

というのも、頼宣は最終的に何のお咎めも受けていないからです。

釈明の仕方がまた一味違っていて
「これはめでたい。他の大名ならいざ知らず、私の名前で謀反を起こしたことにするとは、幕府が安泰な証である」
というものでした。

つまり「これが外様大名なら本当に関与していた可能性が高いが、将軍の身内である私が謀反を起こすわけはないのだから、幕府は安泰だ」という意味です。

この開き直り……もとい堂々たる態度は、伊達政宗の「セキレイの目」とか「白装束で十字架持参」と同じニオイを感じますね。
二人に関するエピソードはあまりありませんが、気性は似通ってたかもしれません。

 

嫁の棺に付き添って和歌山まで帰国するほど愛し

パッと見わかりづらいこの弁明は幕閣にあっさり受け入れられたらしく、頼宣は約10年間、目をつけられて国許へは帰れなかったものの、それ以外には大したペナルティも受けずに済みました。

覇気のありすぎる性格を警戒されたためともされていますが、それこそ言いがかりですよね。
仕事できれば性格は関係ないでしょうに……といいたいところですが、この時代は性格と能力を混同して評価されてたことが多いので仕方がない。

その後は穏やかに暮らしたらしく、多くの場合嫡男・光貞に家督を譲るまで頼宣の行動に関する記述はありません。

しかし!
ここでは一つ特筆させていただきたいことがあります。

正室の八十姫が江戸屋敷で亡くなったとき、頼宣は棺に付き添って和歌山まで帰っているのです。
夫婦仲が良かったとされる大名は他にもいますが、ここまでした人はおそらく頼宣の他にはいないのでは?

頼宣が実家を失くした(※注)八十姫へ一方的に同情していたわけでもなく、姫のほうも生前頼宣のために仏像を奉納していたりと、まさに相思相愛だったことがわかります。

生まれは遅かったものの、情も濃く覇気に富んだ頼宣。
まさに”遅れてきた戦国武将”と呼ぶに相応しい人物だったのではないでしょうか。

長月 七紀・記

※注:八十姫の実家加藤家は、二代目忠広の行いがよろしくない”らしい”という話の末に改易されておりました




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【参考】
国史大辞典
徳川頼宣/wikipedia
瑤林院/wikipedia
kirin

 



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