武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家 その日、歴史が動いた

武田家の子孫はドコへ? 勝頼と共に滅亡した一族と江戸時代に復興した者たち

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七人の息子も全員斬首刑

実際は調べてみたら私腹を肥やすなんて証拠も見つからず、武田の思い出の品で昔を懐かしんでいただけ。
大名の座を狙っていたというのもほとんど言いがかりに近いものでした。

それでもともかく家康が激怒したのだから仕方ありません。

「皆知ってて隠してたんだろ! 息子どもも同罪!!」
ということで長安の七人の息子は全員斬首刑に処されてしまいます。既に埋葬されていた長安の遺体を掘り返して磔にするという徹底ぶりでした。

徳川家康像(駿府城本丸跡)photoby戦国未来

更には縁戚関係にあった大名たちも改易や流罪などの処分がされているのですから凄まじいですね。

長安は家康六男・松平忠輝の家老も兼任しており、忠輝の正室が伊達政宗の娘だったことから「政宗に金を流して謀反を企んでいたのでは?」ともいわれていますが、そこははっきりしません。アヤシイですけど。

この大久保長安事件の背後には、大久保忠隣VS本多正信・正純の勢力争いがあったとも指摘されています。

 

とばっちりで信玄の孫が伊豆大島へ流される

この事件、武田一派の謀反!とまで大騒ぎされてしまったので、武田の幕を長安に渡したのは誰だ、と当然犯人探しがされます。
なんと、その人物は生き残っていた武田信玄の孫・武田信道でした。

信玄次男の息子ですから信玄にとっては孫。
9歳で父親をなくし、甲府の一向宗のお寺でお坊さんとして育てられていました。

ずっとお坊さんだったので武田家滅亡後も生き残っていたのですが、偉くなった長安と仲良くなり、「武田のグッズ貸して」と言われて、軽い気持ちで貸したのが運の尽き。
お寺も破却、信道は息子の信正とともに元和元年(1615年)伊豆大島へ島流しとなります。

ようやく疑惑が晴れたのが50年以上たった寛文十三年(1673年)。
信道はすでに死に、信正が付き従った旧家臣9人とともに江戸へと帰還しました。

江戸では、これまた武田の旧家臣だった内藤忠興(当時磐城35,000石の大名)の屋敷に迎えられました。

 

70歳にして信玄の血がつながった!

内藤忠興は、関が原の戦いの前哨戦である伏見城で祖父が討死したことで徳川内でも家名をあげており、大坂の陣でも活躍したので大名になっていました。

内藤忠興の木像/wikipediaより引用

武田旧家臣のなかでも出世頭である内藤忠興は、元の主君筋の武田信正を大歓迎。

なんと17歳の自分の娘を70歳の信正と結婚させるのです。
しかも、70歳の信正さん、子供をつくります。

武田(織部)信興です。

武田旧家臣ネットワークはこれにとどまりません。

犬将軍・徳川綱吉に抜擢された柳沢吉保という人物がいます。
吉保の祖父も武田家の庶流でした。

吉保は、信興こそ武田家の総領であるとして、自分の屋敷に招き、元禄十三年(1700年)、綱吉に奏上して、信興を旗本に取り立て、甲斐八代郡に500石の新領地を与えることに成功するのです。

そして、吉良上野介など名家と同様の「高家」扱いにしました。

武田家はとうとう復興したのです。

 

信玄の娘・松姫を慕い、八王子に住んだ家臣もいた

まあそんなインパクトの強い子孫ばかりだったわけではなく、ほとんどの人は真面目に余生を送ったようです。

旗本など武士の身分で江戸時代を生き残った家もあり、現代に血が続いているケースもあります。

その中には、織田信忠(信長の嫡男)の正室になる予定(信玄が三方ヶ原へ侵攻して破断に)だった信玄の娘・松姫を心の支えとして、現在の東京都八王子市付近に住んだ人もいました。

松姫は信忠が本能寺の変で亡くなった後、出家して「信松尼」と名乗っていました。

天正十八年(1590年)頃から八王子付近に住み、近所の子供に読み書きを教えながら細々と暮らしていたそうです。大名家の姫様にしては順応性が高い人ですね。

異母姉・見性院が家康に保護されていた縁で消息がわかったらしく、姉妹二人で徳川秀忠から庶子・保科正之の教育をしているので、間接的に幕政に関わったともいえます。

 

仇敵・上杉に嫁いだ菊姫は景勝と仲睦まじくやっていた?

また、他家に嫁いでいた武田家の姫としては、菊姫という人がいます。
上杉景勝の正室で、松姫とは両親共に同じ姉妹でした。

彼女は長篠の戦いで武田家の斜陽が明らかになった頃、武田・上杉の同盟のため嫁いでおり、武田滅亡後もそのまま正室として扱われています。

子供がないことからか、夫婦仲については諸説ありますが……いわく「景勝は男のほうが好きだったから冷遇していた」とか、「菊姫が亡くなる前、景勝は寺社への病気平癒を祈願させたり、名医を探し回った」などなど、今のところ評価は定まっていません。

仇敵だった武田家の姫と結婚した上杉景勝さん/Wikipediaより引用

個人的には「実家=後ろ盾がない女性を留め置いたのは、景勝の義心と好意によるものではないか」という気がするので、良くも悪くも大名家の夫婦らしい感じだったんじゃないかなと思います。

菊姫は豊臣秀吉が天下人になってからはずっと京都で暮らしており、同じ境遇にある大名の妻達や公家とのお付き合いをそつなくこなしていました。

また、景勝の長庶子・定勝はじめ家中からの評判も良かったそうなので、肝心の旦那とだけ仲が悪いというのもありえなさそうですし。

家と共に滅びた当主、生き残って血筋や信念を伝えた家臣や女性達、良いところも悪いところも、大いに学ぶところがありますね。

長月 七紀+編集部・記

【参考】

国史大辞典
武田勝頼/Wikipedia
『武田氏滅亡 (角川選書)』平山優(→amazon link
歴史読本「特集 徳川幕府誕生」(2011年3月号)

 



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