徳川斉昭/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し

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女好きの斉昭、禁忌に触れて、大奥に嫌われる

最たるものは、斉昭の兄嫁付きの女中(しかも大奥では「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」というお偉いさんだった)唐橋という女性に手を付けたことです。

上臈御年寄は生涯に異性関係を持たない決まりで、唐橋はかつて家斉からの求愛も謝辞したほど、厳格に掟を守っていました。大奥から出た後はその決まりに従う必要はなかったはずですが、唐橋は律儀に貞操を守り続けていたのです。

そのプライドを斉昭が踏みにじったのですから、大奥からのウケが悪くなるのも無理はありません。

また、斉昭は正室との仲が良く、子供にも恵まれているのに女好きが過ぎました。
ほぼ毎年子供が生まれているくらいですから、余程ですよね。

ちなみに、末っ子の二十二男&十五女は亡くなる二年前、58歳のときに生まれています。
しかも同じ年に生まれているということは、「同時期に複数の女性に手を付けるのは、斉昭にとって当たり前だった」&「跡継ぎの心配がなくなっても、子作りに熱心だった」ということになります。どんだけ(ドン引き)

つまり、正室との関係が悪いことによる腹いせ混じりの漁色ではなく、単純に夜も元気すぎたからということになるわけで……そりゃ、大奥からすれば好意は持てませんよね。
「夜の生活は必要最低限でいいし、それで別段困ったこともない」(意訳)と言っていた松平定信あたりが化けて出て説教してもいいレベルです。

しかも自分はぽんぽこ子供を作る=金を使うくせに、大奥には「今は幕府が苦しい時なので節約しろ」と言ってくるのですから、ダブルスタンダードにも程がありました。ジャイ○ンも驚くレベル。

自ら敵を増やしているも同然です。

 

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安政の大獄で永蟄居 桜田門外の変の年に死亡

篤姫の義父・島津斉彬など、他にも慶喜を推す大名は複数いました。

が、業を煮やした斉昭らが直弼に直談判を図ったことで、かえって追いつめられてしまいました。
結局、十四代将軍の座は家茂のものになります。

さらに、孝明天皇から水戸藩に直接「幕府を何とかせい」という命令が下った(戊午の密勅)ことで、直弼は「もう斉昭公を放っておけない!」と考え、安政の大獄で攘夷派とともに慶喜推進派や水戸藩へ処分を下しました。

井伊直弼/wikipediaより引用

首魁である斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、その後は政治に関わることができないまま、桜田門外の変と同じ年に心筋梗塞で世を去っています。

タイミングがデキすぎているので、「桜田門外の変の犯人は水戸の浪士(と薩摩藩士)」であることから「斉昭は病死ではなく、彦根藩士に復讐されたんだ」なんて噂も流れたとか。
政治のパワープレイダメ絶対。

斉昭は直弼とは対立しても、彦根名物・牛肉の味噌漬けは好きだったそうなので、たぶん公私を完全に分けて考える人だったんでしょうね。それが悪い方向に働いて、ダブルスタンダードになりやすかったのかもしれません。

何というか……仕事がデキる人なのは間違いないのですが、もうちょっと隠すべきところを隠せば、敵が減ったんじゃないかなという気がしますね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典
徳川斉昭/Wikipedia

 



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