ジェームス・カーティス・ヘボン/wikipediaより引用

幕末・維新 その日、歴史が動いた

ヘボンの知られざる功績がやべぇ!日本初の英和辞典&ヘボン式ローマ字を開発

更新日:

歴史上で「知られざる功績」というのは、いずれ消え去ります。

皆が、その「功績」に触れれば「知られざる→知ってしまった」状態になるから当たり前ですが、それでもやっぱり「知られざる偉大な功績」というのは残っています。

1815年(日本では江戸時代・文化十二年)3月14日に誕生したジェームス・カーティス・ヘボン。

彼は「ヘボン式ローマ字」の考案者であると同時に、日本初の和英辞典を作り、日本人の英語力向上に計り知れない影響を与えています。

なお、”ヘボン”のつづりは"Hepburn"となります。
あのオードリー・ヘップバーンと遠い親戚かもしれないんだとか。

最近では彼のことも「ヘップバーン」と表記することがあるらしいので、そのうち「ヘボン式ローマ字」ではなく「ヘップバーン式ローマ字」と呼ばれるようになるかもしれませんね。

 

シンガポールで音吉の日本語訳聖書に触れる

ヘボン式ローマ字=日本語の英字表記。
そんな業績があれば、さぞかし「言語に関する仕事をしていた人」というような気がするかもしれませんが、彼の本職は文系ではありません。

お医者さんにして宣教師、という秀才です。

ジェームスの両親が信仰心の厚い人だったこと、彼自身の選んだ道が医学だったことが影響したのでしょう。
ペンシルベニア大学医科を卒業後、海外への伝道を夢見るようになったのだとか。

そして志を同じくするクララ・メアリー・リートという女性と出会い、25歳のとき結婚。

翌年、いよいよ国外への宣教のためボストンから船旅に出て、シンガポールに到着しました。
ここでギュツラフ版日本語訳聖書「約翰福音之傳」を入手し、日本語への興味を抱いたようです。

これは音吉が携わった、初めての日本語訳聖書ですね。
近い時代の人物同士が思わぬところで接点を持っているのも、歴史の面白いところです。

江戸時代にイギリス人となった「音吉」の、誰よりも数奇な漂流人生

& ...

続きを見る

 

人種のサラダボウル化は始まっていた

しかし、クララの流産・出産に続き、夫婦揃ってマラリアにかかったため、このときは布教を断念してアメリカへ帰国。
ジェームスはしばらくニューヨークでクリニックを開いて生計を立てていたそうです。

当時のニューヨークは衛生環境が悪く、医師はいくらいても足りない状態でした。

1840年代後半。
ジャガイモ飢饉から逃れてきたアイルランド系移民。
アヘン戦争に始まる混乱を避けてきた中国系移民などなど。

既に人種のサラダボウル化が始まっていたのです。

そりゃ、これだけ違う国から人が集まってくれば、いろいろとカオスになるのは当然の話ですよね。

ジェームスは一人一人に丁寧な診察と治療を行い、やがて評判の良いクリニックになっていきました。
夫婦ともに健康を取り戻す頃には資金もたまり、再びアジアへの伝道を夢見るようになります。

そして1859年(安政六年)、宣教師ならぬ宣教医として再びニューヨークを出港し、香港・上海・長崎を経由して横浜にやってきました。

 

3,500人もの患者を診た

船旅の間も、日本語を勉強していたそうです。

マカオではペリーの通訳を務めたサミュエル・ウィリアムズに日本語を習い、来日してからは日本人に話しかけまくって覚えたんだとか。

最初に滞在した横浜の成仏寺/wikipediaより引用

なかなか独特な手法で「これは何ですか?」という言い回しを覚え、日本人に物の名前を聞いてまわる、というものです。

脳筋な感じのやり方ですが、確かに効率はよさそうですね。
日本人って、少しでも日本語がわかれば外国人でもしゃべれる人が多い……気がしますし。当時もそうだったんですかね。

こうして日本に馴染み始めたジェームスは、横浜市内のお寺に住まいと診療所を構え、医療活動を始めました。

彼自身の書いた手紙などによると3,500人もの患者を診たのだそうです。
当時の日本ではクラミジアによる眼病を患っている人が多く、その患者が一番多かったとか。

 

危うく生麦事件と同じ目に遭うところだった!?

ジェームスの専門は脳外科でした。
が、専門にこだわらず、いろいろな外科手術も行っています。

白内障の手術に一度だけ失敗したとのことで、まあ当時の技術では仕方のないことでしょう。
その患者には実に気の毒なことですが……。

とはいえ、トラブルと無縁だったわけでもありません。

来日の翌年、東海道で商人フランシス・ホールと、宣教師兼医師のデュアン・シモンズ夫妻とともに大名行列を見物したことがあります。
しかし、よりにもよって御三家の一つ・尾張徳川家の行列だったため、跪かないジェームスらと先触れの藩士との間で、一時緊迫した空気が流れたのだとか。

このときは当の尾張藩主もオペラグラスでジェームスらを観察したといいますから、どっちもどっちですけどねw

尾張藩主は十五代・徳川茂徳(もちなが)なので、多分この人だと思われます。
他の逸話が見当たらないので、人柄がよくわからないのですが、おおらかというかテキトーというか……。

ちなみに、茂徳は会津藩主となった松平容保の兄弟です。

ルート的にありえませんが、もしジェームスが容保の行列を見物していたら、生麦事件レベルの大騒動になっていたかもしれませんね。
その生麦事件での負傷者の治療も行ったのがジェームスだったりするんですが。「もしかして、私もこうなってたかも……」とヒヤヒヤしながら治療にあたっていたりして。

 

本で初めての和英辞典「和英語林集成」

そんなこんなのうちに、ジェームスは日本人への教育機関を作ろうと思い立ちました。

当初は診療所に併設した「ヘボン塾」という小さな私塾で、後の明治学院大学の原型となります。
ヘボン塾は男女共学でしたので、ジェームスの同僚である宣教師メアリー・キダーによって分化し、後に女子部がフェリス女学院になりました。

また、眼病の治療のため訪れた岸田吟香という女性が、治療を受けるうちにジェームスの和英辞典編纂を手伝うようになります。

そして1867年(明治元年)に「和英語林集成」として出版。もちろん、日本で初めての和英辞典です。

「ヘボン式ローマ字」は、この辞典を作る際に考案されたものでした。

政府などの依頼によって作ったものではなく、ジェームスたちが「日本人が英語を勉強しやすくなるように」と、自主的に作り出したものだったんですね。

ヘボンとその家族の集合写真/wikipediaより引用

 

診療所も畳んで翻訳作業に専念

ジェームスは、並行して日本語の勉強も続けていました。

和英語林集成を出版してから少し後くらいに、頼山陽の「日本外史」(※漢文体の源平~江戸時代までの歴史書)を原文で読んでいたそうですから、大多数の日本人より日本語スキル上がっとるがな。元々頭が良いと、外国語もスラスラ入っていくものなんですかね。

和英語林集成を出版した後は、聖書の翻訳を主に手がけました。
そのためにヘボン塾や診療所の経営が難しくなり、塾は別の人に任せ、診療所も畳んで翻訳作業に専念することを選んでします。

更には、1887年(明治二十年)に私財を投じ、他の神学校と合同で明治学院を創設。

その五年後に妻の病気によりアメリカへ帰国しています。病人に長旅をさせるのもどうよという気がしますが……クララは帰国から四年ほど後にアメリカで亡くなっているので、帰国は正解だったようです。
いかにジェームスが腕のいい医師でも、当時の日本では西洋医学の最新情報や機材を手に入れることは難しかったでしょうしね。

横浜居留地のヘボンの家/wikipediaより引用

ジェームス自身は、クララを亡くしてから五年後に96歳で亡くなりました。

帰国後のことはあまりわかっていないので、おそらくはご隠居生活といった感じで過ごしていたのでしょう。
明治学院では彼のモットーを今でも受け継ぎ、キリスト教の奉仕の精神からボランティアにも積極的なんだとか。

亡くなった人の魂が海を超えられるとしたら、ジェームスが草葉の陰で喜んでいるかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
ジェームス・カーティス・ヘボン/wikipedia
明治学院大学の歴史と現在

 



-幕末・維新, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.