1494年のイタリア/wikipediaより引用

ローマ イタリア その日、歴史が動いた

19世紀までバラバラな国だった「イタリア統一運動」の流れをスッキリ解説!

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1820年(日本では仁孝三年)3月14日、イタリア統一運動を進めたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が誕生しました。

長靴のカタチをした国土として知られるイタリアは、19世紀までバラバラ。
ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィアなど、各都市を中心とした小国が点在していて、周囲の国に支配されたり、バチカンに右往左往させられたり、かつてローマ帝国でヨーロッパ中を支配していたような面影はありませんでした。

それが如何にして、現代のような一つの国にまとまることができたのか?

ローマ帝国あたりもザックリと見ながら、統一までの流れを振り返ってみましょう。

 

ローマ帝国の栄光の残滓

イタリアの歴史といえばローマ帝国。
実はその前から都市はできていました。

木馬で有名なトロイア戦争(紀元前1200年ごろ)に負けて逃げてきたアイネイアスという人物の子孫がローマ人であり、紀元前753年にロムルスとレムスという兄弟がローマの街を作り始めたといわれています。

王政を経て共和制になり、この頃すでに貴族・政治家・元老院などのシステムを確立。
特筆すべきは、紀元前から市民の集会が存在しており、この会が元老院に対する発言権を持っていたことでしょう。

ものすごく大雑把に言えば
「紀元前から民主主義の概念があった」
ということですね。イタリアすげえ。

そして周辺にできた都市国家とドンパチをしたり保護下に置いたりして、徐々に版図を広げていきました。

 

小さな国ができては大国に吸収される

紀元前100年にユリウス・カエサル(英語読みジュリアス・シーザー)が生誕。
終身独裁官としてほぼ皇帝と同様の立場になりましたが、あまりにも急なことだったので反発を招き、かつての部下達によって暗殺されてしまいます。

このときのセリフが有名な
「ブルータスよ、お前もか」
ですね。

カエサルの死後、義理の息子・アウグストゥス(初名はオクタウィアヌス)が国内を取りまとめてローマ帝国の礎を作りました。

実質的には皇帝だったので、彼を初代ローマ皇帝としていることが多いですね。

ここから東西までの分裂と滅亡については以前書いていますので、お手数ですが以下の記事をお読みいただければ幸いです。

世界がまじで動いたローマ皇帝テオドシウス1世の死 そして帝国は東西に……

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その後の戦争によってイタリア半島は先進国から転落。
一地方都市同然の地位にまで落ちてしまいます。

そして、あっちこっちの民族から絶えず突かれ、同族でまとまるヒマもなく、小さな国ができては周辺の大国に吸収される――そんな時代が長く続きました。

ローマ帝国分裂の後、1000年近く世界史の教科書に出てこないのは、この辺の経緯がややこしすぎるからというのが一番の理由でしょう。

 

メディチ家も半島すべてを征服できない

14~16世紀に入り、やってきたのがルネッサンス期です。

ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、メディチ家など、歴史界隈でのビッグネームが登場。
この頃には有力な都市国家を確立させますが、やはり政治軍事的にはゴチャゴチャしていて、主に芸術方面の話しか出てこないですね。

ローマはもちろん、フィレンツェやヴェネツィアといった現在イタリアの主要な観光地になっている都市は、元は一つ一つ独立した国だったと考えればわかりやすいかもしれません。

中でも北部のヴェネツィア(ベネチア)は海洋国家として最も長く続き、18世紀にナポレオンへ降伏するまで「アドリア海の女王」として名を馳せていました。

1494年のイタリア/wikipediaより引用

話を16世紀に戻しましょう。
この頃はイタリア戦争によって、国土全体が大国の戦場になってしまいます。

神聖ローマ帝国の主になっていたハプスブルク家と、当時フランス王家だったヴァロワ家がイタリアを取り合って起きたもので、半世紀近くも続くのです。
これによりイタリアは概ね3つに分断されてしまいました。

大雑把にいうと北部はオーストリア(ハプスブルク家)、南部はスペイン、ローマ周辺は教皇庁の直轄領となります。
国土の荒廃と外国からの支配は長く尾を引き、少しずつ「イタリア人」という意識も薄れていくのでした。

変化の起点はフランス革命でした。

民衆の蜂起をキッカケに、ヨーロッパ各地で民族意識の再興が起こると、イタリアもこの影響を受けて「俺達もまとまろうぜ!」と考える人々が出てきます。

イタリア北西部とサルデーニャ島を治めていたサルデーニャ王国に対して、秘密結社カルボナリが働きかけ、以降この王国が先導するような形で統一への動きが盛り上がって参ります。
ちなみにカルボナーラの語源はこの人たちではありません(ガチで)。

 

統一運動を進めた男たち

そんな最中に生まれたのがヴィットーリオ・エマヌエーレ2世でした。
この王様個人の話はあまり伝わっておらず、ほとんどイタリア統一の話になってしまうのですがあしからずご了承ください。

個人名でググっても、名前のついた観光地とか、そこが恋のパワースポットになってる話しか出てこないんですよね(´・ω・`)
それでいいのかイタリア人……いいのか……イタリアだから。

現在でこそ
「11人以上になると(サッカー以外じゃ)勝てない」
「ベストオブヘタレ」
「こっちくんな」
扱いのイタリアですが、この頃登場する人たちは皆かなりの男前です。いろんな意味で。

肖像画を並べると中々見分けるのが大変ですが、学生の皆さんは覚えておいて損はないかと。
ややこしいので先にまとめておきましょう。

まず、メガネかけてる太ったシューベルトみたいな人が首相カミッロ・カヴール。

カミッロ・カヴール/wikipediaより引用

一番ヒゲが濃くて真っ赤なシャツを着た人が英雄ジュゼッペ・ガリバルディ。

ジュゼッペ・ガリバルディ/wikipediaより引用

そして、日本髪の真ん中を取ったような不思議な髪型の人が国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世です。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世/wikipediaより引用

それでは。
そろそろ統一までの本題へ入りましょう。

 

教皇は自分達を助けてくれない!

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、サルデーニャ王家の分家筋に生誕。
本家に跡継ぎがいなくなってしまい、まず彼の父親カルロ・アルベルトがサルデーニャ王位を継承しました。

この頃ヨーロッパはどういう時期だったか?
というと、フランス革命が終わり、ナポレオンが出てきたと思ったら退場。どこの国でも王政への疑念や民族主義が芽生えてしっちゃかめっちゃか、会議どころか大陸中がダンシング状態でした。
火元のフランスはもちろん、大きな煽りを受けたのがオーストリアです。

上記の通りオーストリアは北イタリアの大部分を支配していましたので、独立されるとえらいこっちゃなわけです。

1843年時点のイタリア/wikipediaより引用

その懸念は現実のものとなり、かつての「女王」ヴェネツィア周辺がまず蜂起しました。

当初はローマ教皇を旗頭にしたかったのですが、当時その座にあったピウス9世は
「カトリック同士だし、世俗のことに教会が入らなくてもいいよね!」
と言いだして失敗。

さらに悪いことに、両シチリア王国が地元の反乱を収めるため撤退すると、戦争そのものにも負け、この第一次イタリア統一戦争は進展したのかしてないのかよくわからないまま終わりました。

イタリア市民から見て唯一ハッキリしたのは、
「教皇は自分達を助けてくれない。今一番アテになりそうなのはサルデーニャ王国だ」
ということでした。

 

ロシアの南下はロシア以外誰も得をしない

そのサルデーニャ王国では、敗戦した責任を取ってカルロ・アルベルトが(イヤイヤながらに)退位。
代わってヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位すると、まずシューベ……カヴールを首相に任じ、統一のため外交を推し進めるよう命じます。

カヴールとイタリアにとっては幸運なことに、このころ東のほうではロシアとオスマン帝国がぶつかり合ってクリミア戦争が起きていました。

当時の滅茶苦茶なヨーロッパで、国境を越えて団結する理由としては最適です。
なんせロシアの南下はロシア以外誰も得をしませんからね。

どちらかというとイタリアはオスマン帝国との因縁がデカイんですけども、カヴールは「ンなこと言ってる場合か!今が恩の売り時じゃい!!」と一蹴。
オスマン帝国とその味方についたイギリス・フランスが疲弊したところへ颯爽と無傷の援軍を送りつけ、見事、英仏両国と交渉の糸口をつかみます。

カミッロ・カヴール/wikipediaより引用

カヴール、すごいっす!

特に、ナポレオンがいなくなったとはいえ大国であり続けていたフランスとは、
「ウチの領地ちょっとだけさしあげますんで、オーストリアと戦うときにはよろしく」
という約定を交わしました。

 

二次イタリア統一戦争の勃発

これが面白くないのはあっちこっちで戦争に参加していたガリバルディです。

なぜかというと……。
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