紫式部日記絵巻の藤原道長/wikipediaより引用

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藤原道長62年の生涯をスッキリ解説!実は出世の見込みなく義母に頭上がらず!?

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あまり注目されないキャラエピソード

さて、道長の足跡を整理してみますと……。

・藤原北家という最高の家柄ながら、一族では恵まれないポジション
・兄二人の急死をきっかけに甥を蹴落とし、後宮に娘を三人も送り込んで家の立場を確立
・自分一人の権力には固執せず、天寿が尽きる前に長男へ引き継ぐ

色々と賛否両論はあるでしょうが、彼を良く捉えれば、颯爽としており、根本的にはデキる人でしょう。

実は、その人となりを見ても、非常に魅力的なエピソードが残されており、世間にあまり知られてないのがもったいないとすら感じます。

平安時代は衣装やセットにお金がかかりすぎるので映像化しにくい」という噂があります。
その辺が解決できるのなら、ぜひ道長をクローズアップした映像作品を作っていただきたいですね。

大河ドラマ……は、高望みしすぎですかね。
「望月の歌」の影響もあってか、一般的には腹黒イメージも強いですが、決してそれだけの人ではありません。

ここから先は、人間・道長を見て参りましょう。

紫式部日記絵巻/Wikipediaより引用

 

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豪胆な性格 当時はガチ怖い肝試しも超ヨユーで

道長は若い頃から割と豪胆な性格だったといわれています。
僧侶に人相を見られて「他の兄弟より優れている」と評されたことがありますし、肝が座っていたと思われる逸話も多々あります。

例えば、あるとき花山天皇が「宮中で肝試しをしよう」と言い出したときの話です。

花山天皇/wikipediaより引用

随分ノンキなことですが、花山天皇は政治的事情で出家するときも
「月が明るくて、頭を丸めるのが恥ずかしいな^^;」
と言っていたような方ですので、元々キュートな方だったのでしょう。

このとき、道長の兄である道隆と道兼は、途中、怖じけづいて帰ってきました。
大の大人とはいえ、物の怪や祟りが信じられていた時代のことですから、ムリもないことです。
安倍晴明で知られる陰陽師の存在があったことからして、バカにできないのはご理解いただけるでしょうか。

しかし道長は、花山天皇に指定された通り、大極殿(だいごくでん・皇居のお役所エリアである朝堂院、その一番奥にある儀式場)へ出向き、高御座の柱を削って帰ってきたのだとか。
道長が武術に優れていたという話はありませんので、これはやはり肝が相当に座っていたのでしょう。

 

「陰なんて言わず、面を踏んでやりましょう^^」

もう一つは、藤原公任(きんとう)と道長に関する話です。

公任は、道長たちとは遠い親戚といった感じの関係なのですが、和歌・漢詩・管弦・書道など、当時重視されていた芸術の道を全て得意としており、政治の才も決して低くはない万能型の人物でした。

ついでにいうと、母が皇族なので血筋的にも最上級です。
当然、世間の公任に対する評判は、非常に高い。

それをつくづく感じていた道長の父・兼家は、あるとき
「わが子らは、公任の影さえ踏めないだろう」
と口惜しがりました。

これまた時代が前後しますが、斎藤道三織田信長に会った後「ワシの子供たちは信長の門前に馬を繋ぐだろう」(=うちのガキどもは信長の足元にも及ばない)と評した……という話と似ていますね。

しかし、兼家の場合は、当の息子たちの前で言ったというのですから、どぎつい皮肉というもの。
道隆や道兼も同感だったらしく、反論できずにいました。

藤原公任/wikipediaより引用

そこでただ一人、道長だけが
「陰なんて言わず、面を踏んでやりましょう^^」
と言い返したそうです

わざわざ「面」というあたりが実に自信家というか、手段を選ばない感じがしますね。
公任もすごい自信家なので、ある意味、似た者同士で良きライバルというか……。

道長と公任は同じ康保三年(966年)生まれなので、そういう意味でもライバル視していたのかもしれません。
いつの時代も、同じ年頃の人には親近感や敵愾心を持ちやすいものですし。

 

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ライバル公任に送った歌は応援歌?

とはいえ、道長と公任の関係は決して悪くありませんでした。

寛弘九年(1012年)4月、公任の長女と道長の五男が結婚していますし、治安三年(1023年)から翌年にかけて公任が娘を立て続けに亡くしたこと、当時就いていた権大納言以上への出世が見込めないことなどで気落ちし、京を離れて出家・隠棲したとき、道長から次のような歌と僧衣が送られたといわれています。

谷の戸を とぢやはてつる 鶯の 待つに音せで 春の暮れぬる
【意訳】鶯が鳴くのを楽しみに待っていたのに、谷に引きこもったまま今年の春は過ぎてしまったよ

この「鶯」は、もちろん公任を喩えて言ったものです。
その辺を併せて考えると「今年の春はもう終わってしまうけれど、貴方はきっと都へ帰ってきてくれると思っているよ」という感じでしょうか。

道長の娘・彰子に紫式部が仕えており、道長が『源氏物語』の続きを読みたがっていたという話もあることから、「道長は光源氏のモデルの一人だ」とされることがあります。

おそらくは栄華のほどに着目する人が多かったのでしょうけれども、このエピソードからすると、光源氏の親友・頭の中将あたりのほうが近いようにも思えます。
頭の中将も自信家で女性遍歴が多く、名家出身、さらに作中でいうところの「左の藤原家」の当主です。

また、光源氏が須磨に謹慎していた頃、直接会いに行くほどの友情を示したのは彼だけでした。

「仕事がデキて自信家で抜け目もないけれど、友情を決して忘れない」……なんて、実に魅力的な人物ではありませんか。

おそらくは権力者のイメージが強すぎるのと、望月の歌以外の道長の和歌がほとんど知られていないために、彼の人格にはスポットが当たらないのでしょうね。

最近は歴史に関する名著が多々出ていますので、道長の素顔をたっぷり記した本が出てくることを期待しましょう。

長月 七紀・記

参考:国史大辞典藤原道長藤原公任/wikipedia やまとうた




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※藤原不比等の息子たちによって興された藤原四家(ふじわらしけ)
・藤原武智麻呂→藤原南家 ※藤原仲麻呂(恵美押勝)
・藤原房前→藤原北家 ※藤原良房藤原時平藤原道長
・藤原宇合→藤原式家 ※藤原百川・藤原種継・藤原薬子
・藤原麻呂→藤原京家 ※マイナー・藤原浜成

 



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