イラスト/富永商太

武田・上杉家 その日、歴史が動いた

御館の乱で上杉家真っ二つ!謙信死後に「甥っ子景勝vs養子景虎」が勃発する

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越後の龍こと上杉謙信が突然亡くなったとき、残された上杉家の人々は大いに困りました。

遠征に行く予定で進めていた準備がほぼ無駄になってしまったこともありますが、何より大きかったのが【跡継ぎ問題】です。
後継者を誰にするか決めていなかったために、あと一歩で上杉家が滅亡していたかもしれないほどの悪影響を残します。

天正七年(1579年)3月17日、「御館の乱(おたてのらん)」の実質的勝者が決まりました。

上杉謙信の甥っ子・上杉景勝と、後北条家から養子に来ていた上杉景虎が、家中を二分にして大騒動を繰り広げたのです。

上杉景勝/wikipediaより引用

2人は一応謙信の子(養子)で血の繋がりからすると
『景勝一択じゃないの???』
と思ってしまうかもしれませんよね。

実際、結論から申しますと、
・景勝win
・景虎lose
でした。

どうしてそんな結果になったのか?
そもそもなぜ揉めたのか?

一連の流れを追ってみましょう。

 

謙信の死後1年も内輪揉めしていた

「御館の乱」は謙信の死後一年間もやっておりました。

すでに武田信玄も亡くなっていて南からの驚異は薄れていたとはいえ、この時代に内紛やらかす理由はいくつかありました。
謙信の意思が不明なことに加え、周囲の扱いからしてもどちらが後継者と言い切れない状態だったのです。

例えば、”景虎”は謙信の元服直後の名前だったため
「名前を継がせたのだから、謙信は景虎を後継者にするつもりだったに違いない」
という考え方ができますよね。

対して景勝は「御中城様」という呼び方をされていて、これは上杉家内で謙信を呼ぶときに使っていた「御実城様」と酷似しているため「次期当主としての敬称だったに違いない」なんて説もあるのです。

 

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外から支援を求めるか 内から固めるか

さらに、上杉家臣やだけでなく、周辺の大名の思惑も真っ二つに分かれていました。

景虎は実家である後北条氏はもちろん、その同盟つながりで武田勝頼・伊達輝宗、ほか近隣の大名が味方しました。

景勝は?というと、謙信の側近中の側近だった家臣たちや、謙信の他の養子二人、そして上杉家本拠である春日山城周辺と景勝自身の地元から多くの味方を得ています。

・家中では景勝
・外部からは景虎

概ね、そんな思惑が次期当主をめぐって渦巻いていたのです。

条件としてはほぼ互角だったゆえに互いの主張がぶつかり、そこで先に行動を起こしたのが景勝でした。

景勝は謙信死去の報を受けるや春日山城本丸に入って景虎を締め出し、外部へも喧伝したのです。

「義父が亡くなったので当主になりました。よろしく!」

春日山城

こうした書状には重臣達の連署もあり、景勝が後継になることは正当なものであると念を推すカタチになりました。

が、景虎がこれを承諾するはずもなく、小競り合いからやがて戦に発展していった――そんな流れです。

 

金あげるから味方になってくんない?

しばらくの間、景虎についた後北条氏が春日山城まで攻め込んでくるなど、外部の大名を巻き込んだ戦いも数度繰り返され、景勝サイドの地方領主がこれを撃退するなど一進一退の状態が続きます。

戦の経過からも、二人の方針の違いはよく見て取れます。

上記の通り、景虎は外部の大名を引き込むような形で助力を得ようとしましたが、景勝は先に春日山城や謙信の書状など物的証拠を押さえることを重視しているのです。

現代の相続における裁判で無理やり例えるとすると、景虎が敏腕弁護士を集めたのに対し、景勝は故人の日記や通帳・印鑑などを確保したというところでしょうか。かなり大雑把ですが。




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また、景勝は敵方を丸め込むためにかなり気前の良いこともしています。
武田勝頼に対し「金のお饅頭に領地もオマケするから、景虎につくのやめてくれない?」と申し入れたのです。
「裏切って俺につけ」と言わず、実弾使うのがミソですね。

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