飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

和泉式部~恋多き女流歌人は親王や貴族を虜にする小悪魔系

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最近、重苦しい話が多かったので、ここらで少し華やかな話を致しましょう。
3月21日は「和泉式部忌」です。

百人一首56番で有名な人ですね。

「あらざらむ この世のほかの 思ひでに 今ひとたびの 逢ふこともがな」
【意訳】私はもうすぐ死んでしまうだろうけれども、この世の最後の思い出に、もう一度あの人に逢いたい

こんな感じですかね。何とも情熱的。

百人一首はもちろんのこと、「恋」というテーマの歌は数多くありますが、「あらざらむ」という表現は彼女が最初に使い始めたものと思われます。
百人一首の選者である藤原定家や、後世の歌人も多く使っていますね。

和泉式部/Wikipediaより引用

さて、こんな歌を詠むからにはよほど情の濃い人のように思えるのではないでしょうか。

それも間違ってはいませんが、和泉式部の特徴は「とにかく恋にまつわる話が多い」こと。
当時の貴族社会では「顔を見る前に恋をする」のが当たり前ですから、歌をうまく詠めることや、人となりに関する噂話は何より重要です。

和泉式部のような女房の場合は、いわゆる「深窓の姫君」よりは男性と直接顔を合わせる機会があったと思われますが……。それでも現代に比べればずっと少ないですしね。
「あらざらむ」のような歌を詠める女性であれば、そりゃモテるのも当然の話です。

前置きが長くなりましたが、和泉式部の生涯を見ていきましょう。

 

学者の家系に生まれ、和歌を学ぶ環境には恵まれていた

といっても、この時代の他の女性たち同様、和泉式部の生年や没年はわかっていません。

父親は越前守だった大江雅致とのことですので出自はハッキリしていて、大江氏は源平藤橘と同様の「姓」ですから、由緒正しいお家柄の人ということになります。
大江氏は学者の家系でもありますし、和泉式部の義理の祖父にあたる人は、これまた百人一首にとられている大江匡房(中納言匡房)ですので、学問や和歌を学べる環境であったことは間違いないでしょう。

長保元年(999年)には最初の夫・橘道貞にしたがって和泉国に行っています。
この頃10代半ば~20代前半くらいでしょうか。

道貞との間に娘・小式部内侍が生まれたのもだいたい同じ時期です。彼女も百人一首にとられていますね。

しかし、道貞とは京に戻った頃に別れてしまっています。

その後、あるいは同時期に、冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王が和泉式部に熱を上げるという事件が起きました。由緒正しい家柄とはいえ、皇族とでは身分の違いがありすぎます。

和泉式部は世間の物笑いになるやら、父親には勘当されるわ、為尊親王は一年ほどで病死してしまうわで、散々な目に遭いました。

が、騒動はここでは終わりません。

なんと、今度は為尊親王の弟である敦道親王が、和泉式部に惚れ込んでしまったのです。

 

正妻(藤原氏)を追い出し、子は生まれたが

敦道親王はお兄さんより積極的だったようで、和泉式部を自分の屋敷に住まわせてしまいました。
屋敷には、正妻である藤原氏の姫がいたのに、です。

結果、正妻が出て行って後妻が居座るという、何ともまた辛い立場になってしまいました。

敦道親王はあまり気にしなかったようですが。
まあ、本来であれば臣下筋の藤原氏が怒ったところで、屁の河童な身分ですしね。

そして一騒動から三年後、和泉式部と敦道親王の間には男の子が生まれます。多少後ろめたい思いもあれど、これでやっと落ち着けるかと思った和泉式部を、またしても苦難が襲いました。
敦道親王が、26歳の若さで亡くなってしまったのです。

親からは既に勘当されている上、頼みの綱の夫まで亡くしてしまった彼女。
救いの手を伸ばしたのは、藤原道長でした。

当時、道長の娘である彰子が皇子を産んでいたので、道長は一人でも多く優秀な女房がほしかったのです。
既に紫式部は彰子に仕えていましたが、伊勢大輔は和泉式部と同じ頃に仕え始めていますので、おそらくはそういう目的でしょう。

寄る辺なき身でありながら、ときの人に仕えるという栄誉にあずかった和泉式部は、宮廷への出仕を決めました。

道長は彼女の性格は好きではなかったらしく、「浮かれ女」なんて陰口を言っていたそうですが……それでも娘の側に仕えさせたということは、悪評でのマイナスよりも才能のプラスが上回っていたのでしょう。

紫式部も「素行はいいとはいえないけれど、歌は素晴らしい」と日記の中で書いています。

 

竹取物語の「蓬莱の玉の枝」のような無茶振りを

「和泉式部自身の日記である」という確証があるものは存在しないので、彼女がどういった言動をしていたのか、どういう考えがあったのかはわかりません。
(”「和泉式部日記」は本人が書いた日記ではなく、他者が書いた日記風の物語”という説があるため)

しかし、その一端を知ることができそうなエピソードとして、こんなものがあります。

道長の家来に、藤原保昌(やすまさ)という人がいました。
公家ではありますが武芸にも通じていて、道長の信頼も厚かったようです。

あるときこの保昌に、和泉式部が「紫宸殿の梅を一枝手折ってほしい」というお願いをしたことがあります。
紫宸殿というのは内裏の儀式場のことですから、当然のことながら昼も夜も警備がたくさんいるわけです。

つまり、これは竹取物語の「蓬莱の玉の枝」のような無茶振りということになります。

女性の頼みを断っては男がすたると考えたのか、それとも既にすっかり惚れ込んでいたのか。保昌は警備に弓を射掛けられつつ、見事梅の枝を手折って和泉式部へ渡すことに成功しました。

これを見た和泉式部は保昌の勇気と男気を認め、結婚を決めた……という話です。
祇園祭のモチーフのひとつにもなっているので、ご存じの方もいらっしゃるでしょうか。

これがそっくりそのまま事実だとしたら、和泉式部という人は「男性に対して割と難しいおねだりをすることが度々あった」のではないでしょうか。
それなら、複数の異性と交際するのが珍しくない時代に、わざわざ「浮かれ女」「素行がよくない」と言われた理由もわかりますし。

男性を遊び半分で試して面白がりもするけれど、歌がうまくて頭が良くて、情熱的で……そんな女性であれば、貴族の男性が次々に惹かれていくのも納得できる気がしませんか?

とはいえ、保昌は和泉式部より20歳は年上だったので、その後任国の丹後(現・)についていった後は、やや不満気な歌も残していますが。保昌は保昌で、和泉式部以外の女性もいたようですしね。

まあ、どちらも当時の貴族社会では珍しくないことですけれども。

 

娘が孫を生んだ直後に亡くなってしまう不幸

和泉式部の中年期以降の言動については詳しくわかっていません。

万寿二年(1025年)に娘の小式部内侍に先立たれた際、悲痛な歌を詠んでいます。

「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
【意訳】
「あの子は死ぬ間際に何を思っただろう? きっと子供のことに違いない。私だって、親を亡くしたときより、子供に先立たれた今のほうが辛いもの」

小式部内侍はお産で亡くなってしまったので、和泉式部にとっては孫の誕生を喜ぶ間もなかったことでしょう。
彼女の嘆く声が聞こえてきそうな、悲痛な歌ですよね……。

土佐日記でも「うまれしも かへらぬものを 我がやどに 小松のあるを 見るがかなしさ」と詠まれていますし、もともと乳幼児死亡率の高い時代ですから、小さな子供が亡くなることは珍しくないことです。

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それにしたって悲しいのに、長じて安心したところで先立たれるのは、また別の悲しみが加わるでしょう。
和泉式部は孫の成長を見るたびに、嬉しさと悲しみが交互にやってくるような心持ちだったに違いありません。

 

全国各地に「お墓」や「地名」がある

その後は仏教に帰依したようですが、亡くなった場所についてはいくつか説があります。
北は岩手県から南は佐賀県まで、和泉式部のお墓であるとされるものや、地名に彼女の名がそのまま残っている場所は数多く存在します。
これは、一女房・一歌人としては少々不可解なほどです。

おそらく、彼女の伝説を語り継いでいった旅人や、彼女を尊敬する人の話と混同されているのでしょうけれども。

「我に誰 あはれをかけむ 思ひ出の なからむのちぞ 悲しかりける」
【意訳】「私が死んだ後、誰も思い出してくれなくなるのだと思うととても悲しい」

「しのぶべき 人もなき身は ある時に あはれあはれと 言ひやおかまし」
【意訳】「私が死んでも、誰も哀れんではくれないだろう。生きている間に、自分で自分へ”かわいそうに”と言っておこうか」

和泉式部はこんな歌も詠んでいますので、本当はものすごく寂しがりな人だったようにも思えます。

どこが本当のお墓にせよ、もしくはどことも知れぬところで死んだにせよ、「千年たっても忘れられておらず、むしろ魅力を感じている人が多いのだ」ということが、彼女にとって一番の供養になるのかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
和泉式部/wikipedia
やまとうた

 



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