ナポレオン戦争/wikipediaより引用

フランス 欧州 その日、歴史が動いた

ナポレオン戦争が超わかる!ヨーロッパ全体を巻き込んだ皇帝の戦績

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1814年(日本では江戸時代・文化十一年)3月31日は、ナポレオン戦争でパリに連合軍が入城した日です。

ナポレオンと言えば、日本でも特に知られた有名人。
実は幕末にもその功績が輸入されていて吉田松陰や西郷隆盛も影響を受けたという話もあります。

ナポレオンに憧れ『那波列翁伝初編』を耽読した西郷隆盛や吉田松陰 元を辿れば頼山陽とは!?

そのナポレオンとは切っても切れないのがナポレオン戦争。
彼が執政・皇帝として権力の座にあった頃起こした一連の戦争のことです。

年数でいえば1796年から1815年まで。
ナポレオンが一度クビになって復帰した「百日天下」の期間までになります。

後半に行くほど複数の戦争が並行していたり、そもそも関係する国が多かったりで非常にややこしいのですが、ものすごく乱暴にまとめると
「ナポレオンが台頭して失脚するまで、ヨーロッパ諸国が頑張った一連の戦争」
という感じになります。

逆にいえば、「ナポレオンを完全に封じ込めるまで、複数の国がかりでも20年近くかかった」ということにもなりますね。

 

ナポレオンを封じ込めるまで複数の国が手を組み20年

フランス・ナポレオンから見た流れとしてはこんな感じになります。

【16行で読むナポレオン戦争の流れ】

①フランス革命戦争&第一次対仏大同盟

②第一次イタリア遠征

③エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)

④第二次対仏大同盟

⑤ナポレオンが皇帝に即位

⑥第三次対仏大同盟&アウステルリッツの戦い&トラファルガーの海戦

⑦第四次対仏大同盟&プロイセン攻略&大陸封鎖令

⑧スペイン独立戦争

⑨第五次対仏大同盟&マリー・ルイーズと再婚&教皇幽閉

⑩ロシア遠征(ロシア戦役)

⑪第六次対仏大同盟&ライプツィヒの戦い

⑫ナポレオン失脚、地中海のエルバ島へ流される

⑬ウィーン会議(が踊って何も進まない)

⑭ナポレオンが配流先から脱出、百日天下&第七次対仏大同盟

⑮ワーテルローの戦いでナポレオンが再び敗北

⑯ナポレオンが大西洋の孤島・セントヘレナ島へ流される

いや、もう、ポイントを並べるだけでも凄まじい長さですね。
受験生のみなさんが気の毒で仕方ありません(´・ω・`)

つーことで、できるだけ端折りつつ、本題に入っていきましょう。

 

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民衆主導のフランス革命はシャレにならん

フランス革命が起きたとき、ヨーロッパ諸国は非常に大きな衝撃を受けました。
王制が当たり前だった当時、もしも自分のところで革命を起こされたらたまらないからです。

アメリカ独立戦争は、それこそ「対岸の火事」でしたが、地続きのヨーロッパで起きた変革を放置しておく訳にはいきません。

そこで、フランス革命軍 vs ヨーロッパ諸国の間で起きたのが「フランス革命戦争」です。まんまですね。

後者の組んだ同盟を「第一次対仏大同盟」といいます。
ここからしばらく「フランスvs諸外国」という構図が続くので、対仏大同盟は第二次・第三次……と数字が増えていくのですが、いちいち参加国が違うのがめんどくさいところです。

さすがに世界史のテストで「第○次対仏大同盟の参加国を答えよ」なんて問題は出ないと思います。そこに力を入れるより、他のところでミスを減らすほうが良さそうかなぁ、と。

閑話休題。
こうして取り囲まれた状態のフランス革命軍は、ドイツ・イタリアの二方面から、同盟の中心格であるオーストリアに攻め込もうとします。
このうち、イタリア方面の司令官だったのがナポレオンでした。

緒戦で敗退したオーストリアは停戦を申し入れ、中核が脱落したことで、第一次対仏大同盟は瓦解。
ここでフランスはいくつかの衛星国や領地を得て、ますます勢いづいていきました。

 

「そうだ、エジプトへ攻め込もう!」

オーストリアを退けることには成功しても、大同盟に参加した国のうち、イギリスがほぼ無傷だったことはナポレオンにとって問題でした。
制海権を奪うことは難しく、そこで彼はイギリスとインドの連携を断ち切り、経済的に打撃を与えようと考えます。

「そうだ、エジプトへ攻め込もう!」
と、この意見が採用され、エジプト遠征が始まるのでした。

しかし、イギリス提督ホレーショ・ネルソン率いるイギリス海軍に負けて孤立してしまっただけでなく、一度は占領したマルタ島を奪われてしまいました。

そしてこの流れで、別の国へとばっちりが行くことになります。
地中海を押さえられたせいで、デンマークとスウェーデンに通商上の不都合が出てしまったのです。

また、ロシアも「イギリスが地中海にでしゃばってくるとウザいんだよね」と考えます。
ロシアにとって不凍港を得ることは悲願であり、その候補地の一つはクリミア半島~黒海~コンスタンティノープル~地中海のラインだからです。

この辺は地図を見るとわかりやすいですかね。

 

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デンマーク・スウェーデン・ロシアの第二次武装中立同盟

こうして、利はともかく害が一致したデンマーク・スウェーデン・ロシアの三ヶ国。
ここにプロイセンが加わって、第二次武装中立同盟が結成されました。

ちなみにこの四カ国はアメリカ独立戦争時にも似たような同盟を組んでいました。
なのでこのときが「第二次」なんですね。対仏大同盟との混同が起きそうでめんどくさいところです。

しかし、これに難癖を付けたのがイギリスでした。
デンマークの首都・コペンハーゲンを砲撃して勝ったことで、同盟はあっさり瓦解。完全に恫喝です、本当にありがとうございました。

デンマークはフランスに、ロシアとスウェーデンはイギリスに近づいていくことになります。

この時点で戦争がだいぶ長引いていたこともあり、スウェーデンの調停でフランス革命戦争の和解を図る会議が開かれました。が、案の定頓挫して戦争が続きます。

そのうちオーストリア・イギリス・ロシアを中心として第二次対仏大同盟が結成され、オーストリアが北イタリアを奪還したことで、再びフランスは窮地に陥りました。

いつの時代も、民衆は負けた政権に厳しいもの。
フランス総裁政府(革命政府)の支持がガタ落ちする中、ナポレオンがエジプトを脱出してクーデターを起こし、独裁権を得ます。

その勢いでナポレオンはオーストリア軍を撃退し和約に持ち込み、第二次対仏大同盟は瓦解しました。
他、ローマ教皇との対立を解消し、イギリスとも講和しました。

しかし、一年ほどでフランスがイギリスにとって経済的にアレな行動を取り始めたため、今度はイギリスがフランスへと宣戦布告。

この辺からヨーロッパ諸国の目的は「ナポレオン打倒」になっていきます。

 

皇帝となったナポレオン 英国本土へ乗り込もうとすると

一方、ナポレオンはフランス皇帝に即位し、絶対的な権力者になっています。
その勢いに乗り、イギリスと決着をつけるため、本土へ乗り込もうと計画しました。

対するイギリスはオーストリア・ロシアなどを引き込んで、第三次対仏大同盟を結び対抗します。

ナポレオンはまずオーストリア軍を打ち破り、その後、アウステルリッツの戦いで完勝を収めました。
この戦いを「三帝会戦」ともいいますが、名前の由来は、フランス・オーストリア・ロシアの参加国がいずれも皇帝を戴いていたからです。語感がいいので、こちらの名前を覚えていた方も結構多いのではないでしょうか。

しかし、相変わらず海でイギリスが相手となる「トラファルガーの海戦」には勝てませんでした。

この戦いそのものはナポレオン戦争に大きな影響を与えませんでしたが、これによってナポレオンが「イギリスはほっておこう」と決めたことがのちのち仇となります。
というか、世界史的にいうと「イギリスは真っ先に攻略するか、味方につけるか、完全に放置するかを決めて相手をしないと大損する相手」なんですよね。さすが大英帝国(この時点だと未来の話ですが)。

後年、例のちょび髭も対イギリス・対ロシア戦略でナポレオンと同じ失敗をしています。この二人に対する一般的な印象はかなりの違いがあるので、意外ですよね。

かくしてイギリス以外の問題を片付け、当面の危機を脱したナポレオンは、兄・ジョゼフをナポリ王、弟・ルイをオランダ王にして周囲を固めました。

ナポレオンの勢力がドイツ中部にまで及びはじめたことで、その東にあるプロイセンも脅威を感じるようになります。
そのためイギリス・ロシア・スウェーデンとともに第四次対仏大同盟を組み、フランスへ宣戦布告しました。

結果は、プロイセンの大敗。
フランス軍はベルリンまで攻め込みます。




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首都陥落って、いかにもシャレにならない感じがしますが、世界史上だと実は珍しくもない話だったりします。

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