浅野長政/wikipediaより引用

織田家 豊臣家 その日、歴史が動いた

浅野長政の地味だけど堅実な生涯~忠臣蔵の「浅野内匠頭長矩」は子孫?

投稿日:

戦国武将にとって一番大切なことは、自分の家を無事残すことです。

戦に勝つのも政略結婚や人質に子供を差し出すのも、権勢を持つ人物に擦り寄るのも全てはこのため。
人間に限らず生物共通の「子孫を残す」という本能が発展したものともいえそうです。

しかし、何故かこの難事を成し遂げたにもかかわらず、一般的な知名度や評価が低い人物は珍しくありません。

慶長十六年(1611年)4月7日、浅野長政が亡くなりました。
6日説もありますが、ここでは7日として扱います。

 

他の長政が目立ちすぎ問題

浅野長政は豊臣秀吉の義弟であり、政治的には結構重要な立ち位置の人です。
その割に知名度は低い。

なぜか?

これは私の勝手な印象ですが、戦国時代はやたらと
【長政という他の武将が活躍する】
からではないでしょうか。

最もインパクトのあるのが織田信長の義弟で、悲劇のイメージも強い浅井長政でしょう。
一文字しか違いということが一つあります。

他にも著名な「長政」を列挙してみましょう。

・浅井長政(信長妹・お市の方の旦那)
・黒田長政(黒田官兵衛の息子)
・池田長政(池田恒興の息子)
・浅野長政(豊臣秀吉の義弟)←今日この人

もう一人、織豊政権時代に長政がいたら、今頃、ご当地アイドルか何かで
「ナガマサファイブ」
とか
「○○戦隊ナガマサン」
とか作られていたかもしれませんね。

さらにご当人にインパクトの強いエピソードが乏しい――という事情も、知名度の上がらない決定的な要因にもなっているかもしれません。

ともかくそんな浅野長政の生涯を見て参りましょう。

 

スポンサーリンク

信長「んじゃ、親戚同士で協力して仕事せい」

浅野長政は、信長に仕えていた叔父さんの家に婿養子に入りました。

妻の名は、やや(長生院)で、それがキッカケで出世の糸口を掴みます。
後に豊臣秀吉の正室となるねね(おね・高台院)が同じ家の養女だったため、秀吉夫妻と義理の兄弟になったのです。

長政=やや(義理の姉妹)ねね=秀吉

こんな感じですね。

そこで信長が「じゃあ親戚同士協力して仕事しろ」と命じ、秀吉と長政は一緒に行動するようになります。

イラスト/富永商太

余談ですが、あれだけ親族間の争いに手こずった信長がこういうことを言っているのは、何だか切ない気がしますね……どんな気持ちだったんでしょうか。気にしてなかったかもしれませんが。

そしてややこしいことに、浅井長政の本拠・小谷城攻めにも浅野長政は参加。
秀吉がここの主になると、長政も近隣に領地をもらいました。

考えてみたら、仮にナガマサファイブ(仮)が結成されても、仲間割れする可能性が高いですよね。

 

秀吉政権の財務大臣

浅野長政はその後も秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いなどで戦功を上げました。

秀吉の信頼も厚く、京都奉行や太閤検地の担当者など、要職を続けて務めています。

その関係か、統一の過程で諸大名から取り上げた金山・銀山の管理なども担当していたようです。
現代日本でいえば財務大臣というところでしょうか。

なにげに石田三成と共に「のぼうの城」を水攻めもしています。地味ですかね。

長政はこれに加えて諸大名との交渉役(取次)も担当していて上方にいることが多かったため、領地の管理などは息子・浅野幸長が担当していました。

一族経営の会社は腐敗することが多い気がしますが、こんな風に役割分担がはっきりしていたらいいですよね。
部下もやる気が出るんじゃないでしょうか。

 

スポンサーリンク

関ヶ原本戦に参加しないのに大幅出世

しかし、意外にも関が原の戦いでは家康側についています。

豊臣秀頼にとっても義理の親戚筋なわけですから、同じ(義理だけど)一族の小早川秀秋らと共に西軍についても良さそうなものです。
福島正則などいわゆる”武断派”のように三成憎さでというわけでもなさそうですし、単純に趨勢を読んでのことだったのかもしれません。

後年「三成が生きていた頃はマシだったのに」とぼやいたなんて逸話も伝えられていますから、三成の「能力はあっても人望がごく一部にしかない」という点から長くは続かないと思ったのでしょうか。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

長政は秀忠についていったため、関が原本戦には参加していません。

代わりと言っては何ですが、幸長が東軍の先方を見事勤め上げた功績で和歌山37万石に移封され、浅野家として大きく躍進しました。

長政本人は家康の側で働くことを選んでおり、息子とは別に領地を与えられています。

秘書のような立ち位置が一番落ち着く、かつ能力を発揮できるタイプだったんですかね。
そりゃ地味……もとい、なかなか華々しい逸話は出てこないわけです。

そして慶長十六年の春、穏やかにその生涯を閉じたのでした。

 

長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵で……

で、ここまでなら「ふーん」で済む話なのですが、彼の子孫には超有名人がいます。
名字でお気づきの方もおられるでしょうかね。

長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵(元禄赤穂事件)の当事者・浅野内匠頭長矩なのです。

もしかして、こっちが有名すぎるせいでご先祖の影が薄くなっちゃってるんですかね、あばばばばば。

長月 七紀・記

更新2019年4月7日
初出2014年4月6日




スポンサーリンク


【参考】
国史大辞典
浅野長政/wikipedia

 



-織田家, 豊臣家, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.