ティムール朝の支配領域/wikipediaより引用

アジア・中東 その日、歴史が動いた

中央アジアの梟雄・ティムール 西へ東へ死ぬまで戦場駆け回る

60代になっても老いてなお盛ん 戦場を駆け巡る

このころ既に60代になっていたティムールは、まだまだ「老いてなお盛ん」といったところでした。

息子の一人ミーラーン・シャーからは「そろそろ引退しなよ(そして俺を後継者に指名しろ)」と言われたこともあったのですが、これをはねつけたために背かれています。
インド遠征から間もない頃、息子の領地が西アジア方面だったため、この反乱をきっかけに再び西方へ攻め込んでいきました。
心身ともにタフすぎる。

ティムールは進軍速度をあげるため、進路にある各都市へ降伏を勧めました。応じたところは血を流さずに済ませ、少しでも抵抗の兆しがあれば容赦なく攻略し、虐殺も行っています。

前者の例はホムス、後者の例はアレッポ(いずれも現在のシリア)です。
また、流言を使って敵の士気を削ぐ、和平と見せかけてだまし討ちなどの策も用いました。

さらに西方へ勢力を伸ばしていったティムールは、やはりオスマン帝国とも対立し、都市を奪ったり奪われたりという一進一退が続きます。
オスマン帝国によって滅ぼされた小国たちから助けを求められることもありました。ティムールはアナトリア半島を治める意思がなかったので、彼らに領地を返してやっています。
何のために戦争したんだかよくわからないですが、過程が目的だったのでしょうか。

ティムール/Wikipediaより引用

また、この頃になるとヨーロッパの国々もティムールの存在を意識し始めています。
カスティーリャ王国(スペインの元になった国の一つ)やイングランド、フランス、東ローマ帝国などから親書が送られていたようです。

こうして大きく版図を広げたティムールでしたが、残念ながら、同時に不幸とも無縁ではいられませんでした。

1403年に、後継者と決めていた孫のムハンマド・スルタンに先立たれているのです。
ティムールはだいぶ気落ちしたらしく、同じ年に一族へ領地を分配しています。なんで大国の君主って自ら領地分割してしまうん?(´・ω・`)

 

死を悟ったティムールは孫を後継者に宣言

1397年の末からは、明への遠征も計画していました。
その前に、孫であるピール・ムハンマドの結婚式を開き、国内の有力者とサマルカンドの全住民の前で後継者にすることを宣言しています。

実際にサマルカンドを出発したのは1404年なのですが、この間に明から朝貢を促す使者が来たことがありました。これを追い返しています。

攻め込むつもりだったからそうしたのか。
「ウチを下に見るなんぞ許せん!!」と思ったから遠征を始めたのか。
どっちでしょうね。

しかし、天候悪化で行軍が遅れている間にティムールは病にかかってしまいます。
しかも、寒さでガタ落ちした兵の士気を上げるため、無理して宴会を開いて酒を飲み、起き上がることすら難しくなってしまいました。

死を悟ったティムールは、病床でもう一度ピール・ムハンマドを後継者にすることを宣言しています。

が、ティムールが亡くなった後、他の王族たちは遺言に背き、自分が王位を継ぐべきと主張しあいました。いったい遺言とは……。
ピール・ムハンマドも軍の指揮を執れるくらいの能力はあるのだから、君主としての素質もあったはずなんですがねえ。

病没してから5日後、ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に葬られました。
ここは青いレンガやモザイクの美しさで有名なところで、現在も観光地となっていますね。

ティムールが葬られたグーリ・アミール廟 photo by Ramón /Wikipediaより引用

 

呪いなんて信じないハズのソ連も……

墓といえば、ティムールの棺は二回暴かれたことがあります。

一度目は1740年のこと。
イランの梟雄ナーディル・シャーがティムールに心酔しており、棺を持ち出そうとしたのだそうです。
いくら憧れてるからって、棺を持ち出して何をどうしようというのでしょうね……むしろ祟られそうですが。

二回目は1941年のことです。
この頃中央アジアにはソ連が勢力を伸ばしていて、ソ連のチームによってティムールの棺が調査されました。なぜ第二次世界大戦真っ最中にそんなことを始めたのかは謎です。

その時の記録によると、ティムールの棺には「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていたそうです。が、そういうものを信じないのが当たり前のソ連。

お構いなしに棺の蓋を開けると、内側には「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という言葉があったのだとか。

その調査から2日後、ドイツがソ連侵攻(バルバロッサ作戦)を始めた……といわれています。バルバロッサ作戦の開始が1941年6月22日ですから、ティムールの棺を調査したのは同年6月20日ということでしょうか。

当初は圧されていたソ連軍でしたが、スターリングラード攻防戦で反撃をはじめる1942年11月に、ティムールの棺をイスラム式で埋葬し直したそうです。

ソ連政府や軍がこの手の迷信を本気で信じたとは思いにくいですが、「これでもう呪いは収まるはずだからキッチリ働け」と兵をけしかけるためにやったかもしれませんね。
呪いが実在するかどうかは例によって悪魔の証明ですし、出来過ぎた経緯ですが、ありえなくもなさそうです。

シェイクスピアの墓にも似たような文言があることで有名です。
未だ発掘調査がされないのは、ティムールの例があるからなのかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
ティムール/Wikipedia

 



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