家康の死因

徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の死因は「鯛の天ぷら」ではなく胃がん?最期まで色々現役でした

元和二年(1616年)4月17日は、最後の三英傑・徳川家康が亡くなった日です。

家康の死因というと、一昔前までは「鯛の天ぷらを食いすぎw」という扱いでしたが、最近では違う説の方が有力になってきています。

というのも、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、同年1月のこと。

直接の死因というのならば、4月中旬に亡くなるというのは、いくらなんでも遅すぎですよね。

では一体、死因はなんだったのか?

晩年の頃のお話と合わせて振り返ってみましょう。

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塩分過多になりやすい食事環境だった

今のところ可能性が高そうなのは、胃がん説です。

質素倹約を自ら実践していた家康にしては意外な気もしますが、胃がんリスクの一つに「塩分の高い食事」というものがあります。

かつての日本人の食事は「玄米+漬け物+味噌汁+焼き魚」が基本。

というかこれが全部そろえば贅沢なもので、だいたいは「玄米+漬け物・味噌汁・焼き魚のどれか」という感じでした。

つまり炭水化物(糖質・食物繊維)+塩分なわけです。

食事に占める塩分の割合が高くて当然ですね。

他の戦国武将でも胃がんや食道がん、高血圧で亡くなったと言われている人が何人もいますし、この辺の病気はある意味職業病のようなものだったかもしれません。

庶民は食べ過ぎになるほど食べられなかったでしょう。

 


生涯現役~30才以上離れた側室も

さて、家康が亡くなるもう少し前のことにも着目してみます。

といっても亡くなった歳が歳のため、戻りすぎると大坂の陣やら豊臣家とのアレコレやら、全く楽しくない話になってしまう。

今回はプライベートの方を見ていきましょう。

前にも家康の女性関係の話をしたことがありますが、家康はそっちのほうでも生涯現役でした。

後に尾張家の初代となった義直の生母・お亀の方など、30歳以上も離れた女性を多く側室に迎えています。

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と言っても、色ボケしていたわけではなく、自分が死んだ後のことをきっちり考えていたようです。

例えば阿茶の局という側室については、その才女ぶりを惜しんで「ワシが死んだ後も秀忠たちを頼む」と言い残し、すぐに出家することを許しませんでした。

阿茶の局は律儀に従い、徳川秀忠が亡くなるまで江戸城に留まり、和子が入内するときもお供を務めたといいます。

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