源義親

源氏一族を描いた錦絵/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

頼朝の曽祖父・源義親の乱が平家の台頭を招く~暴れん坊源氏の所業

血の繋がりは、似たようなシーンで表面化するもの。

特に身内争いが酷いのが清和源氏の面々で、その中でもわかりやすい例が源頼朝でしょう。

徹底した血の粛清を重ね、自身の兄弟をも次々に処分していく過酷さはまさに源氏の棟梁――。

本稿の主役である源義親も、頼朝の曽祖父であり、平安中期に【源義親の乱】を起こしておりました。

悪対馬守とも呼ばれた源義親(不明-1108年没)。

この義親には大きな特徴があり、天仁元年(1108年)1月6日に首を斬られて退場すると同時に、平清盛の伊勢平氏が台頭します。

普通、歴史の授業で平家の台頭と言えば【保元の乱】や【平治の乱】からの~!という認識になろうかと思いますが、実質的には、この【源義親の乱】が与えた影響からと考えた方が自然かもしれません。

時系列順に話を追っていきましょう。

※以下は源頼朝の生涯まとめ記事となります

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源義親は頼朝や義家の曾祖父チャン

源義親は、源義家の次男です。

源氏の正統なる一族で、ざっと親子関係の系図を確認しておきましょう。

清和源氏の棟梁

清和天皇

第六皇子・貞純親王

経基王(源経基)初代

源満仲(安和の変)

源頼信(道長四天王)

源頼義(前九年の役)

源義家(後三年の役)主人公の父ちゃん

源義親(源義親の乱)←今日の主人公

源為義(保元の乱)

源義朝(平治の乱)

源頼朝・範頼・義経

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ご覧の通り、頼朝や義経の兄弟から見て、曾祖父チャンにあたりますね。

義親の父である源義家は、前九年の役後三年の役で勝利を収め、清和源氏が関東の豪族たちに支持されるきっかけを作った人として有名です。

源義家
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後三年の役は朝廷から見ると「義家が勝手にやった戦」でした。

義家の武力や統率力は認められたものの、ときの「治天の君」白河法皇からすると鬱陶しい新興勢力と映ったのです。

以下、院政の記事でも触れましたが、そもそも白河法皇は藤原摂関家の影響を断ち切るために、院政という政治形態を確立させました。

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もしもここで義家ら清和源氏が、武力と功績に加えて政治力までつけてしまったら、第二の摂関家になりかねません。

白河法皇としては、何が何でも避けたい事態です。

歴史を知っている我々からすると

「結局、鎌倉幕府ができるんだから同じじゃね?」

とも思えてしまいますが、当時としては未来の話ですからね。

 


いつの頃からかグレ始め……

そんなわけで、この時点での清和源氏は、たとえ官位(官職位階)をもらえたとしても、遠隔地の受領がせいぜいでした。

受領とは、現地へ赴任する国司(行政責任者)であり、下級貴族に与えられるような官職です。

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父・義家は、功績と勝手な行動を相殺されて“前(さきの)”陸奥守のままでした。義親は対馬守といったように、中央政府とは遠いところに赴任させられています。

そうした背景や状況のためなのか、それとももっと直接のきっかけがあったのか……詳しい経緯は不明ですが、義親はいつの頃からかグレてしまいます。

いったい何したんや?

と思われるかもしれませんが、これが文字通り、対馬守在任中に一般庶民をブッコロしたり、税を横領したり、山賊のようなことをやったといわれています。

成り行きは不明ながら、大宰府のナンバー2である大宰大弐(だざいのだいに)・大江匡房(おおえ の まさふさ)が陳情を行っているので、濡れ衣やデッチ上げでもなさそうです。

そこで朝廷は、まず義家の部下で義親の顔なじみでもある豊後権守・藤原資道を説得に向かわせました。

が、彼は見事に「ミイラ取りがミイラに」なってしまい、義親の味方に与してしまいます。おいおい。

 


「流罪に決定!」「んなもん知らんがな」

『こりゃ穏便な解決は無理じゃないか?』

そう悟った朝廷は、義親を隠岐島への流罪に決めました。

が、実際には行かなかったようで、数年後に義親が出雲で殺人や強奪をしていたことが記録されています。

そりゃあ、とっ捕まえてもいないのに流罪にしようとしたってムリがありますよね。

ついでに、ほぼ同じ時期に

義家の四男・源義国
vs
義家の弟・源義光(よしみつ)

との間で【常陸合戦】と呼ばれる別の内輪揉めが繰り広げてられます。

息子と弟がガチの戦争を始めて、涙目どころではないのが源義家。彼は67歳という老齢に、激しい精神的ダメージを受け、間もなく亡くなってしまいます。

嗚呼、親不孝モンが(´・ω・`)

義家の長男・義宗は幼くして亡くなっていたため、源氏の頭領・義家の跡を継ぐとしたら、義親が順当……なわけですが、上記のように地方で暴れまわっている状況ではそうもいきません。

また、三男・義忠はこの時期に何をしていたのかよくわかっていない(=大して重んじられていなかった)ようです。

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