徳川家宣/wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

在位3年で死亡の六代将軍・徳川家宣が意外とやりよる!知られざる実績とは

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寛文二年(1662年)4月25日、後に江戸幕府六代将軍となる徳川家宣が誕生しました。

「犬公方」で悪名高い綱吉の次の将軍です。

が、早速「WHO ARE YOU?」という声が聞こえてきそうですので、本題に移りましょう。

 

犬公方の甥っ子です

この時代のお約束で、徳川家宣さんも名前がコロコロ変わっています。
なので家宣で統一しますね。

家宣は、徳川綱吉の養子で、もともとは甥っ子でした。
綱吉の弟である徳川綱重の息子だったのですね。

綱重が正室と結婚する直前、身分の低い女中に手をつけてしまったという、テンプレな経緯で生まれました。
そのため綱重は体裁が悪く、幼い家宣を家臣に押し付け、しばらく別の名前を名乗らせていたのです。

天一坊事件でも似たようなことを書きましたが、デキて困るような関係の相手ほど命中率が高くなるのは何でですかね。

この時代、回避する方法も確立してないですし、当時はお偉いさんほど夜の作法がうるさかったので、気軽にストレス解消したかったぐらいの理由かもしれませんが。

一応トーチャンのフォローをしておきますと……。

綱重は、数学マニア・関孝和を召抱えておりました。
ただの手が早い殿様ではなく、孝和は後に家宣のお供をして江戸で働き、和算の発展に努めているので、ある意味トーチャンからの最大の遺産だったかもしれませんね。

関孝和/wikipediaより引用

閑話休題。
結局、綱重はなかなか男の子に恵まれず、家宣が呼び返されて徳川姓を名乗るようになります。何だかなぁ。

 

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順番待ちには慣れていたが、48才で将軍はさすがに

実は、家宣という人は、この手の「順番待ち」を生涯何度も経験しています。

彼が生まれたときの将軍は伯父にあたる四代徳川家綱で、やはり息子がいませんでした。
そのためいったんは五代将軍の候補になりながら、「家綱様の弟君である綱吉様が先に将軍になるべき」ということで、五代目が綱吉になったのです。

さらに六代将軍になるときにも、綱吉の娘が紀州藩主の徳川綱教(つなのり・八代徳川吉宗の長兄)に嫁いでいたため、
「綱教殿に男子が生まれたら、本家にもらって将軍にしよう」
ということでしばらく家宣は保留されていました。

綱教自身も将軍候補になっていましたが、本人が早世して更に男児には恵まれず――血筋の近い順ということで家宣にお鉢が回ってきたのです。

実に回りくどいですよね……。

こうした経緯があったせいで、1709年に綱吉が亡くなり、家宣が六代将軍の座についたときには既に48歳。
当時の感覚でいえばすっかり初老です。というか原義的には初老=40歳なので立派な老人ですね。

どうでもイイ話ですが、もし現代でもこの基準だったら国民の半分近くは老人になっちゃいますね。キャーコワーイ(棒読み)

 

家宣様バンザイ! これで鰻が食える!!

家宣自身にもあまり時間がないことはわかっていたようで。
将軍への就任が決まると、綱吉の葬儀が終わる前から仕事を始めました。

まずは、天下随一の悪法と名高い(低い?)生類憐みの令の廃止です。
実質的には処罰のみ廃止とし、法令そのものは残したそうなので、ルールからマナーへの変更というところでしょうか。

真っ先にここへ手をつけたことで、家宣は幕臣からも庶民からも
「家宣様バンザイ!これで鰻が食える!!」
と喝采を浴びます。

実は、生類憐みの令では、食べるために魚を販売・調理するのも禁止されていました。
日本は魚食文化なのにね……。

また、実家から連れてきた新井白石や間部詮房を中心に据え、綱吉が推し進めてきた文治的な政治を完全に確立させます。
と、まぁ、能力的にはなかなかの将軍でしたが、その座に就いてからわずか三年後の1712年、50歳で亡くなってしまいました。残念。

新井白石/wikipediaより引用

もっと長生きしていれば、教科書でも太字表記、もしくは先生に「ここ赤線引いとけよ」という扱いを受けることになったかもしれません。
三年では制度の変更はできても、実質的な効果が出るにはあまりに時間が足りませんもんね。

現代でも、新しい法律ができてから施行までには時間がかかるものですし。

 

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男系男子の不在に備えて

徳川家宣の短すぎる治世。
その中で一つだけ、現代にも通じている改革があります。

皇室に新しく閑院宮家(かんいんのみやけ)を作ったことです。

宮家というのは簡単に言えば皇室の分家のようなもので、当代の天皇に男系男子がなかった場合、皇位継承者を確保するためにいくつか創設されてきました。

現在では、昭和天皇のご兄弟である常陸宮家・三笠宮家、三笠宮家から独立した桂宮家・高円宮家、皇太子殿下のご兄弟である秋篠宮家がありますね。

現代でも皇位継承者候補の人数が少なすぎるということで問題になっていますが、江戸時代にも同様の危機が迫っていたのです。

当時は伏見宮家・京極宮家・有栖川宮家という三つの宮家があったものの、これらのいずれかを継がない皇族は全て出家しなければならないというわけのわからんルールがありました。

危ぶんだ新井白石が
「何があるかわかりませんから、もう一つくらい宮家があったほうが良いのでは?」
と建言。
家宣と朝廷の間でも合意が得られたため、幕府から資金が捻出されて、新しく宮家が作られたのでした。

 

もし閑院宮家の創設がなかったら…

白石の予感は、後世、見事に当たります。

約60年後に直系の皇位継承者が絶えかけた際、閑院宮家から光格天皇が即位したのです。

御所千度参り・天明の大飢饉のときの天皇ですね。
詳しくは過去記事をご覧いただければ幸いです。

光格天皇、幕府へ物申す! 知られざる名帝の頑張りが明治維新へ繋がった

幕末の天皇としてちょくちょくお名前が出てくる孝明天皇。
怒涛の西欧化に対応していった明治天皇。

つまりは今上陛下もご子孫にあたりますので、もしも閑院宮家の創設がなかったら、今頃、皇室が存在していなかった可能性もあるということです。大変どころの話じゃありません。

大げさな話「家宣と白石が日本の将来を築いた」とも言えますかね。
影が薄いからといって、やってたことが無意味とは限らない――そんな好例といえそうです。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典
徳川家宣/wikipedia

 



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