松平定信/wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

江戸のカタブツ of the 堅物・松平定信ってどんな人? 寛政の改革は失敗……

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人生において【マジメな性格】は間違いなく美点でしょう。

が、あまりに過ぎると周りから煙たがられてしまうもので、今回はその中でも日本屈指な人のお話です。

文政十二年(1829年)5月13日、江戸時代一のカタブツとして有名な松平定信が亡くなりました。

定信の印象については、よしながふみ先生の『大奥』が出るまで「容赦なく庶民の財布を締め上げて失敗した人」というマイナスイメージしかないかもしれません。
あるいは「とにかく頭の固い人」とか。

もちろんそれでも間違いではないですが、彼の生い立ちを見るとそうなったのも仕方ないかなぁ、という気がしなくもありません。

ということで、カタブツがカタブツになった所以を見ていきましょう。

 

「次の田安家当主になるだろう」

松平定信は、徳川御三卿の一つ・田安家の七男として生まれました。

残念ながら七人が全員無事に育ったわけではなく、上の四人は夭折してしまったため、実質的には三男扱いだったようです。
この時代では無理のないことですよね。定信も幼い頃はいろいろと病気がちだったといわれています。

なお、当時の子供が如何に夭折してしまったか――という点については、まり先生の連載に説明がございますので、よろしければご参照ください。

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御三卿の田安家は、徳川吉宗の系統が継いだ家であり、松平定信自身も吉宗の孫でもあります。

利発な子供として知られ、父の跡を継いだ兄・治察(はるさと)が成人しても病弱だったため、当初から「定信が次の田安家当主になるだろう」といわれていました。
事実、治察は家督を継いで、たった三年で亡くなっています。

しかし、松平定信がすぐに田安家当主になることはありませんでした。

その直前に徳川一門のひとつであり、白河藩主の久松松平家へ無理やり養子に出されてしまったため、しばし政治の中枢と離れることになったのです。

これは定信の高い能力と、ときの幕閣・田沼意次を堂々と批判する度胸が疎まれたからだといわれています。

 

飢饉で能力発揮!白河の餓死はゼロだった!?

上記の通り吉宗の孫である松平定信は、当然、徳川宗家から見てかなり近い血筋。
五代将軍・徳川綱吉以降、たびたび後継者問題に直面していた江戸幕府としては、立派な「次期将軍候補」でありました。

この時点の将軍・徳川家治には嫡男・徳川家基(いえもと)がおりましたが、他に男子はなく、万が一……ということが考えられたのでしょう。

ただ、それは他の御三家も同じこと。
特に一橋家の当主・治済(はるさだ)は次期将軍のライバルとして、定信を敵視していたともいわれています。

徳川御三家については以前取り上げたことがありますので、「田安家とか一橋家って何だっけ?」という方は以下の関連記事をどうぞ。

御三家と御三卿って何がどう違うの? 吉宗が田安家を創設する

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果たして家基は家治の将軍在任中に急死し、徳川姓を名乗る者の中から、治済の長男・徳川家斉が家治の養子となり、次期将軍に確定しました。

松平定信としては残念だったかもしれません。
が、根が生真面目ゆえにグレることはなく、養子先の白河藩で仕事をきっちりやっていたようです。

その成果は天明の大飢饉(1782~1788年)で発揮されました。

白河藩では、あらかじめ米や雑穀などを買い込み、自ら質素倹約を実践、いざ飢饉が起きてからは領民に買い込んでおいた食糧を配給するなどして、この危機を乗り切ったのです。
日本中が苦しんだこの飢饉でも、同藩では餓死者が出なかったといわれているほどでした。

 

節約を推し進め、庶民から娯楽を無理やり奪っては……

飢饉が過ぎ去ってからも松平定信は備えを忘れません。

米以外の作物を奨励し、収穫した穀物を貯蔵するための蔵を作らせたりもしていました。
現在、白河市の名物となっている「白河そば」も、定信が「蕎麦は寒さに強いからどんどん作れ!」と言い出したのがきっかけだったそうです。

そして、その手腕を買われて、田沼意次失脚後は期待の星として幕閣に入り、寛政の改革を行うわけですが……。

いかんせん飢饉対策と幕府の財政では感覚が違いすぎました。

単純な話、飢饉対策は「米がなければ粟や稗を食べればいいじゃない」でも何とかなりますが、大都市・江戸の政治経済を担う幕府ではお金の流通も非常に大切であり、白河藩と同列では考えられません。
当時すでに世界有数の超過密都市になっていた江戸では、誰かから何かを買って暮らすのが当たり前でしたので、「金を使わずに暮らせ!」と言われてもどうしようもないわけです。

確かに、農村の復興や失業者の救済など、良い政策もやりました。

が、演劇や貸本(当時の図書館もしくはレンタルビデオ屋)といった娯楽や、贅沢な衣服&装飾品を禁止。
さらには違反者をとっ捕まえるという乱暴な面もありました。

また、悪政の代名詞こと棄捐令もやっています。
旗本・御家人の借金をチャラにしたり、軽くして計画返済させたりするもので、当然ながら貸主からすれば大不評なやり口です。

なぜ松平定信ほどの人が、こんな誰も成功したことがない政策を実行したのか、ちょっと理解に苦しむほどです。

どうも定信という人は「こうすればウチはうまく行く!!」と思ったが最後、他のデメリットに一切気が回らないという悪癖があったように感じます。

天明の大飢饉の際も、自藩のために食料を買い込んだのはいいとして、その分、他の藩が買えなくなるわけですから、餓死者が「どこで死んだか」という点しか変わっていないわけです。

そんなわけでそのうち世間でも悪評が上回るようになり、松平定信もまた意次と同じように失脚したのでした。

 

現代の刑務所は定信の人足寄場と同じ発想

松平定信がやったことの中で一つ、後世にも大きく役立ったものがあります。

ホームレス救済施設こと「人足寄場(にんそくよせば)」です。

ものすごく大雑把にいうと「お上が三年間だけ衣食住と体調不良の面倒を見る代わりに、ここで働いて金を貯めて、シャバで暮らしていけるようになれ」という施設で、軽犯罪者の更生施設も兼ねていました。
仕事の内容は主に大工や農作業、手工業(縄ないやろうそく作りなど)で、経験がある者はそのまま行い、素人には指導をしてやらせていたとか。

これ、現代の日本の刑務所とほぼ同じなんですよね。

外国の刑務所は概ね「罰を与える」ことを主軸にしていますが、日本の刑務所は「社会復帰のための準備をさせる」施設だといわれています。
そのため外国では終身刑という生涯の拘束刑があるのに対し、日本では「コイツもうダメだわ」と判断された犯罪者には死刑が科せられるのでしょう。

そういった意味では、現在の日本にも多大な影響を及ぼしている政治家といえるかもしれません。

もちろん、人足寄場でも物資をちょろまかしたり、屁理屈をこねて開き直ったりする不届き者はいたそうなので、全てがうまくいっていたわけではないのですけどね。

現在では福祉の方面から人足寄場を研究している先生もいらっしゃるようです。
なので、今後、松平定信についてもっとクローズアップされる日が来るかもしれません。

寛政の改革については以下の記事にてマトメておりますので、よろしければ御覧ください。

3分でわかる寛政の改革~ゼイタクは敵&質素倹約!をやりすぎて結局失速?

八 ...

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
松平定信/wikipedia
白河観光物産協会ホームページ
人足寄場における福祉的処遇(J. Fac. Edu. Saga Univ.)

 



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