近年では足利直義説が有力な源頼朝肖像画/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

3分でわかる鎌倉時代(鎌倉幕府)~成立から元寇後に滅びるまでのダイジェスト版

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400年も続いた長い長い平安時代
それが終わればいよいよ武士の世・鎌倉時代(鎌倉幕府)となります。

その期間は【1192-1333年】あるいは【1185-1333年】という認識でしょう。

歴史的に大きな区分としては鎌倉・室町時代(1338-1573年)を合わせて「中世」となりますね。

んでは、中世って何?
となりますと、これはヨーロッパの歴史を踏まえて考えられた概念で
「封建的な武家政権の世の中」
ということになります。

あれ?
だったら江戸時代も中世になるんでは?

なんてツッコミも確かにその通りなのですが、土地制度なども含むと支配構造が大きく異なるため、ここは通説にしたがって中世=鎌倉・室町時代(江戸幕府の成立まで)と覚えておいた方がよさそうです。
室町時代の終わり【戦国・安土桃山時代】も含めて中世という考え方です。

ちなみに他の区分も見ておきますと、

古代=飛鳥・奈良・平安
中世=鎌倉・室町(戦国&安土桃山)
近世=江戸時代
近代=明治・大正・昭和(~戦前)
現代=昭和(戦後~)・平成

こんな状態ですね。
直接テストに問われる内容でもありませんが一般常識の範疇かもしれません。

 

1185年から7年間の準備期間

さて。
一見どうでもよさそうな、歴史の区分。
なぜ、そんなところから触れたのか?

と申しますと、平安~鎌倉時代の変遷がなかなかややこしいんですよね。

平安時代の、本当に最後の数年間は

◆源平時代(1180~1185年)
◆幕府準備期間(1185~1192年)

とまぁ、スンナリと鎌倉時代にはなっていない。

前者の「◆源平時代」は【治承・寿永の乱】と呼ばれる、いわば源平の戦いです。

一方、後者の「◆幕府準備期間」は、年号で言いますと1185~1192年に相当し、壇ノ浦の戦いから頼朝が征夷大将軍に任ぜられるまでの7年間になります。

壇ノ浦の戦いで平家が滅びた元暦二年(1185年)

―――この間約7年間―――

源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(1192年)

一体この7年間に何が行われていたのでしょうか?

授業ではあまり問われないかもしれませんが、一言でまとめれば「頼朝と後白河法皇の政治的やりくり」です。

同時に頼朝は、源義経源範頼の始末も進めておりまして。
この辺が、武士というより政治家と評される所以なのでしょう。

では、あらためて鎌倉幕府成立への入り口となる元暦二年(1185年)からの流れを見て参ります。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

 

侍所や公文所を設置する

京都では元暦二年(1185年)に「文治地震」という大きな地震が発生します。

平家が滅びた4ヶ月ほど後のことでして。
その厄払いのため&平家に焼かれたときの修復を兼ね、東大寺の大仏や大仏殿が、後白河法皇の主導によって修復されました。

一方、頼朝は、平家打倒の前から鎌倉幕府のキモとなる役所・役職をいくつか作っています。

詳しくは後日扱いますが、箇条書きすると以下のようになります。

・侍所  御家人統率組織
・公文所 政治担当 後に「政所(まんどころ)」と名称を変える
・問注所 裁判担当
守護 国(旧国名)に一人任じられ、その国内の警察を務める
地頭 荘園や公領など、国より小さい単位で任じられ、年貢の徴収と治安維持を担当する

良くも悪くも、時代が移り変わっていったのがこの7年間。
後白河法皇に対して頼朝は、着実に支配力を強めていったのですね。

これにて武家政権は盤石に!
と思われる鎌倉時代(鎌倉幕府)の始まりですが、その経営はわずか30年足らずで暗礁に乗り上げてしまいます。

源氏を棟梁とした将軍が次々に亡くなってしまうのです。

 

源氏将軍が次々に消えていく

まず1199年に初代・源頼朝が亡くなった後、嫡男の源頼家が将軍の位を継ぎますが、この頼家が母の実家&最大の勢力者だった北条氏と対立。
結果、暗殺されてしまいます。1204年のことでした。

源頼家/wikipediaより引用

あくまで私の考えですが、北条氏が頼家の若さを侮って、アレコレしたのでしょう。

それでなくても頼朝が兄弟を滅ぼしまくって味方の少ない頼家です。
彼は乳母の一族である比企氏や歳の近い近習を重用し、北条氏に対抗しようとしておりましたが、先に比企氏を滅ぼされ、暗殺という憂き目に遭いました。

そして今度は頼朝の末子であり、頼家の弟である実朝が将軍に据えられるのですが、これまた暗殺。
ヤッたのは頼家の息子・公暁です。
理由は未だ不明ですが、公暁自身もすぐに誅殺されてしまうのですから、もう、源氏の内輪揉めもここまで来るとそういう血なのかと思わざるを得ません。

結果、幕府創立から30年もしないうちに、将軍の直系が絶えるという大惨事に陥りました。

多くの兄弟は頼朝自身が滅ぼしてしまいましたが、他にも源氏の親戚筋はおります。
それが北条氏らによってはどんどん始末されてしまいまして。
例えばその中には、義朝の七男(=頼朝らの兄弟)・全成の息子などがいました。

一応、義経のすぐ上の兄・義円の息子である義成もいたのですが、彼は義円が墨俣川の戦いで敗死した後、尾張国愛智郡で育っていたので、無関係とみなされていたようです。
源姓を使わず、「愛智義成」と名乗っていますし。
あるいは北条氏が義成の存在や血縁関係を知らなかった可能性もありますかね。

義成の子孫がどこまで続いたかは不明ですが、織田信長の家臣・愛智拾阿弥は義成の子孫を自称していたそうです。
地元ではよく知られた名字だったんでしょう。

ちなみに拾阿弥は「日頃の態度がアレすぎて前田利家にブッコロされてしまい、それが原因で利家は信長に追い出された」というエピソードで知られている人です。
こういう数百年越しの繋がり(暫定)ってワクワクしますね。

せめて範頼だけでも生き残っていれば、頼家や実朝の味方になっていたかもしれません。
義経には娘がいましたので、排除される前に頼朝と和解できていれば、頼家か実朝、あるいは彼らの子供と縁戚になっていた可能性もありでしょう。

義経は政治力の欠如が不安で仕方ないですが、味方が全くいないよりは……。

源義経/Wikipediaより引用

 

北条氏から執権が誕生 得宗とは違います

ともかく北条氏の手腕は凄まじく、同時進行でどんどん権力を強めていきます。

その極めつけが北条義時
頼朝の義弟にあたる義時は、公文所と侍所の別当(長官)を兼任するようになりました。

公文所は政治の中枢機関であり、侍所は御家人を管理するところですから
政治
軍隊
を統括したようなものです。

これを【執権】といいます。鎌倉時代おなじみの用語ですね。

一方、北条氏の“当主”のことを【得宗】といいます。
時代によって得宗と執権を兼ねる人もあれば、そうでないこともあったので、なかなかややこしいところですね。

というか、です。
こんな疑問が湧いてきませんか?

『もうさぁ、北条氏が将軍になっちゃえばいいじゃん!』と。

これが身分制度等の面白いところと申しましょうか。
北条氏も確かに平氏の血を引いていますが、直接将軍の座につくには功績や身分が足りなかったのです。

しかし、幕府のカタチを維持するためには「征夷大将軍」が必要です。
そこでこんな意見が出ました。

【摂関家の高貴な血を引く人に将軍をやってもらえばいいんじゃね?】

運のいい(?)ことに、このころ頼朝の同母妹である坊門姫が、藤原北家の流れを汲む一条家に嫁いでいました。
坊門姫のひ孫である藤原頼経が四代将軍として迎えられ、幕府の形は続くことになります。

ちなみに、彼は数え年で2歳。つまり実年齢ではたった1歳です。
どう見ても傀儡です、本当にありがとうございました。

 

頼朝の妻・北条政子が喝っ!

そんな幕府を見て「今なら潰せるんじゃね?」と考えたのが、後鳥羽上皇でした。
トップが優れた政治家である頼朝や、その正当な後継者である頼家・実朝だった頃よりは、相手が乳幼児の方が戦いやすいですもんね。

承久三年(1221年)、後鳥羽上皇は兵を集めて立ち上がりました。
いわゆる「承久の乱」の始まりです。

鳥羽天皇/wikipediaより引用

この後鳥羽上皇は、莫大な荘園を有するなど、経済的基盤だけであるばかりか、自身の武力も高く、おとなしくて礼儀正しい皇族イメージとは真逆な人物でもあります。

それだけに鎌倉幕府の御家人たちは右往左往。
頼朝の時代は、場合によって皇族を敵に回すこともありましたが、この頃の多くの関東武士はそんな経験はありません。

すごく乱暴にいえば、当時の武士にとって上皇の名はドラマ水戸黄門様の印籠みたいなものです。
おまけに北条氏の台頭によって危機感を抱く、他の有力御家人たちが後鳥羽上皇の下についたため、他の多くの一般御家人たちが怖気づくのも無理ないことでした。

そこで頼朝の妻・北条政子が喝っ!

「日々の生活にも困るような状態から、今のように安定した暮らしができるようになったのは、頼朝殿がお前たちの領地を認めてくれたからではないか!
今こそ、その恩に報いるときでしょう!
相手が上皇様とはいえ、何をモタモタしているのですか!」

武士の成り立ちには色々あります。

源氏や平家のように、皇室の末裔として、あるいは藤原氏の血を引くなどによって、ある程度の世間的立場を持っていた家はかなり稀なケース。
御家人たちの多くは、戦のないときは武芸を磨きながら自らも畑仕事をする、半士半農の生活を送っていました。

彼らの殆どは、自分の家の周りに畑を作り、敵に攻められたら防御し、戦が終わればまたクワを手に取る……そんな暮らしです。
中央政府が地方の統治をほぼ放棄していたために、「獲ったもん勝ち」状態がスタンダードでした。

現代でも「その日暮らし」なんて言葉がありますが、当時の武士たちはそこに自分や家族の命が関わってくるわけです。

それが頼朝によって変わりました。

源平の戦い(治承・寿永の乱)で功績を立てた者を中心に、戦功に応じて頼朝が領地を安堵(保証)したおかげで、多くの武士は「命や土地の係争」の心配をせずに生活できるようになりました。

政子はそれを改めて認識させ、御家人たちの良心と団結力を引き出したわけです。

 

かくして幕府の権限が広がった

こうして士気が激増した御家人たちは、見事に上皇軍を撃破。
日本史上でも珍しい「官軍(朝廷軍)の敗北」となります。

そもそも朝廷の軍と国内にあるその他の軍がぶつかりあうこと自体、日本史ではごくわずかなんですけれども。

ともかくこの結果を受け、それまで別個の政治的組織だった朝廷と幕府の関係が変化しました。
幕府が堂々と朝廷に口を出せるようになってしまったのです。
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