巨人連隊兵士の肖像/wikipediaより引用

ドイツ その日、歴史が動いた

大男ばかりを集めた巨人連隊も結成!フリードリヒ・ヴィルヘルム1世って脳筋?

更新日:

1740年(日本では江戸時代・元文五年)5月31日。

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡くなりました。

オーストリア継承戦争や七年戦争でオーストリア・フランス・ロシアと戦ったフリードリヒ2世のお父ちゃんです。

フリードリヒ2世は自分の兵から「親父」と呼ばれていたそうなので、ヴィルヘルム1世は「親父の親父」ということになるわけですが……この二人、どちらかというと似てない親子だったようです。

今回は、ヴィルヘルム1世を見て参りましょう。

 

夫婦仲は悪い されど子供は14人でうーん……

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が生まれ育った頃、プロイセンの財政は火の車状態でした。

彼の父親がお金を使いすぎたのです。
ただ単に遊んでいただけではなくて、大学を作ったりもしたので、悪いことばかりではなかったんですけどね。

ともかくそのせいか、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は学問や芸術を極端に嫌い、軍事にばかり目が行くようになってしまいました。

粗暴な王であったため、妃であるゾフィー・ドロテアとも打ち解けられず、夫婦仲は良好とはいえなかったようです。
その割に14人も子供がいる(うち4人は早世)んですが、どういうことだってばよ。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世/wikipediaより引用

こう書くとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は何一ついいところがなかったかのように見えますが、数々の改革も行っています。

いろんな意味で強烈過ぎて、なかなか好感は持ちにくいのですけれども……。
一つずつ見て参りましょう。

 

ひとつ!(ガチの)巨人軍を創設じゃ!

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は背の高い男性を見つけては、兵士として取り立てるという変わった趣味がありました。

背が高い=力が強い=いい兵士になる。
そんな連想からだったようで、いつしかどんどんそのアイデアが肥大化していきます。

それが頂点に達したある日、彼は国中に向けてこんな募集をかけました。

「背の高い男を差し出したら者には褒美を! 自ら名乗り出た者には給与を与える!」

こうして国内全土から背の高い男を集め始めたのです。

ただでさえガタイのいいドイツ人から見て【背の高い人】ですから、中には2m級の人もいたそうで。
高給を出しても王の下に行きたがらない場合は、誘拐同然の方法で連れて行ったとか(!)。

身長2mを相手に人さらいをする技術があるなら、どうにかして戦術にも応用できそうな気が……しませんかね。
それとこれだと話が違うんですかね。

巨人連隊

巨人連隊/wikipediaより引用

 

ひとつ! カントン制度で軍隊強化なり!

こちらは誘拐ではなく、各地域ごとに一定の人数を兵士にするという方法で軍隊を強化しようという方策でした。

「兵が逃亡した場合、責任はその兵の出身地域にも課せられる」といった罰則もありましたが「2年兵役につけば、その後は1年のうち2ヶ月だけ軍にいればいい」という割とマシな条件が提示され、次第に国民から信頼されるようになっていきます。

これによりプロイセンの軍隊はある程度安定した兵数を確保できるようになりました。
息子・フリードリヒ2世の時代に大きく躍進できたのは、こうした紳士的な対応が影響したのでしょう。

 

ひとつ! 庶民は働け、逃げたら追うぞ!

財政が火の車状態で即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、宮廷だけでなく国全体の財布の紐を締めにかかりました。

その政策の一環として「市場の女達は、ヒマなら喋ってないで糸紡ぎをしろ」というようなお触れを出しています。

しかも、こういった細かな命令がきちんと守られているかどうか把握するために、自ら町に出て見回りをしたのだとか。
それこそヒマじ……ゲフンゲフン。

命令が守られていないと杖でぶん殴っていたといいますから、市民が怯えるのも当然の話です。
中には「王様が来るぞー!!」と聞いただけで逃げ出す人もいたとか。

しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、そういう人を見つけると「なぜ逃げるんだ」と問い詰め、「王様が怖いんです」と言われようものならブチギレて「お前たちは私を好きになるんだ!!」と怒鳴ったそうな。

暴力振るっといて好きになれとか……。
異次元すぎるやろ(´・ω・`)

 

ひとつ! 亡命した息子は幽閉  手助けした家臣は成敗!

こういったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ですから、私生活でも温厚な夫・父とは言い難い状態だったようです。

フリードリヒ2世の好むオペラなどの芸術を否定するわ。
芸術的なものを楽しんでいるとぶん殴ってくるわ。

当然ながら父親を尊敬できるはずがありません。

そんな父親に反抗して、フリードリヒ2世がまだ王太子だった頃、亡命を計画したことがありました。
南ドイツに旅行した際、親友であり近衛の軍人であり、一番の理解者でもあるハンス・ヘルマン・フォン・カッテという人物に手引をしてもらうよう頼んだのです。

が、父王はそんなことお見通しでした。
即座に見つかり、フリードリヒ2世は幽閉されてしまいます。

そして、カッテは王太子逃亡の主犯として処刑されることになったのです。

一度目の裁判では無期懲役になったのを、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が
「カッテが死ぬか、司法が消えるか、どちらがいいと思う」
と脅迫して変えさせたのだとか。
裁判とは一体……。

処刑は、フリードリヒ2世が幽閉されていた部屋のすぐ側で行われました。

「カッテ、私を許してくれ!」と叫んだところ、「私は恨んでなどいません、殿下は国王陛下と一日も早く仲直りなさってください」と答えたそうで。
なんという忠臣の鑑でしょうか(`;ω;´)

 

後にドイツ統一の中心となっていくフリードリヒ2世

フリードリヒ2世はカッテの遺言を守り、処刑後に父へ謝罪の手紙を書きました。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世も尾を引くようなことはせず、その後は息子に軍事を任せるようになっていきます。
晩年には、息子に関して「あいつがいれば後は心配ない」と言うほどの信頼を寄せるようになりました。

フリードリヒ2世は、父親のお気に入りだった(ガチ)巨人軍は廃止していますけどね。
まぁ、お金がかかる割に役に立っていなかったので仕方がありません。

この後、プロイセンはフリードリヒ2世の時代となり、その後もいくつかの戦争と政争を繰り広げながら、やがてドイツ統一の中心となっていきます。

カッテの犠牲は無駄にならなかった……いや、無駄にしなかったというべきですかね。

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長月 七紀・記

【参考】
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世_(プロイセン王)/wikipedia
カントン制度/wikipedia
巨人連隊/wikipedia
ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ/wikipedia

 



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