今川家 その日、歴史が動いた

今川家の家督相続でイチャモンついて花倉の乱 義元&雪斎が福島家をぶっ潰す

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天文五年(1536年)6月10日は、今川家のお家騒動【花倉の乱はなくらのらん】のクライマックス・方ノ上城かたのかみじょう攻めがあった日です。

これを収めて今川家をまとめたのが、後に織田信長に倒されたことで有名な今川義元です。
彼にだってカッコよかった時代があるんですよ……というか有能な方だと思います。

 

血筋からして義元があとを継ぐのが道理

そもそも今川家は、室町幕府将軍家である足利家の一門の中でも格の高い家でした。
いざというときには将軍も輩出できますし、正式に駿河の守護に任じられていたのです。

が、もろもろのトラブルで一族の争いが度々起こるようになり、少しずつ勢力が弱まっていました。

義元の父・今川氏親の代にはいったん落ち着いたのですが、氏親の跡を継いだ長男・今川氏輝と、その後継者に決まっていた次男・今川彦五郎が急死してしまったために家中は大混乱。
この二人が同じ日に亡くなったのはどう考えてもアヤシイということで、暗殺説もあります。

といっても、血筋からして義元が継ぐのが道理でしたので、本来は起きるはずがなかった乱ともいえます。
他の側室生まれの兄も出家していましたし、氏親正室の子供の年齢順では義元が一番上でした。

年齢順でいくと側室生まれの兄のほうが上ですが、そうホイホイ正室生まれと側室生まれの序列はひっくり返せません。

 

俺の孫が氏親様の孫だし、年長だし、家継がせてよ

しかし、義元が還俗すると有力家臣の一部は大反発しました。

特に娘を氏親の側室に出していた福島家くしまけ
「孫の玄広恵探げんこうえたんが氏親様の子だし、こっちのほうが年長だし家継がせてよ!」(超訳)
とゴネだしたことで話がこじれます。
どう見てもジーチャンが権力を握る気満々です。本当にありがとうございました。

こうして「正室生まれの弟」vs「側室生まれの兄」という構図ができてしまいます。
戦国時代あるあるです。

ここで仲裁に入ったのが氏親の正室であり、義元の母である寿桂尼じゅけいにです。

が、これはあえなく失敗。
長引けば不利と見たか、福島家はこの年の5月25日に挙兵して強引に当主の座をかっさらおうとします。

こうなっては義元も引き下がるわけには行きません。
そもそも嫡流である彼が引く理由はありませんしね。

こうして福島家と愉快な仲間たちは、今川家の本拠・今川館へ攻め込み、見事に追い返されました。

義元は寿桂尼や太原雪斎らに助けられ、さらに後北条氏の支援を受けて6月10日に福島家をはじめとした反乱側のこもる方ノ上城を攻撃し、見事に落とします。

そして福島家に担ぎ上げられた玄広恵探がいた花倉城を攻め、徹底的に追い詰めました。
このためこの乱は「花倉の乱」と呼ばれているわけですね。

 

わずか半月で決着 福島家は読み間違えた?

ちなみに恵探は攻め込まれてきたときに花倉城から逃げ出し、付近の寺で切腹しました。

当時の福島家の当主が誰だったかもはっきりしないので、恵探が家を継ぐ意思を持っていたのかどうかもよくわかりません。
が、首を取られるよりは自ら腹を切ることを選んだあたり、やはり武家の人という感じがしますね。

ところでこの乱、上記の通りたった半月程度で勝負がついてしまっているのですが、福島家はそもそもどこに勝算があって兵を挙げたのか?

それを考える時、にわかに浮上してくるのが今川義元サイドについた太原雪斎です。

絵・小久ヒロ

栴岳承芳せんがくしょうほうを名乗っていた義元を幼き頃より教育し、跡目相続にあたって還俗させ、さらにはこの花倉の乱で共に戦ったのです。
もちろん太原雪斎は僧侶ですから槍働きではなく、また詳細な記録も残っておりませんが、彼の前後の関わりからして大きく影響したのは間違いないでしょう。

義元はこの後、武田信玄(当時は晴信)と北条氏康との【甲相駿三国同盟】にも深く関わっていたとされ、その手腕が今なお高く評価されております。

福島家としてはこの義元&太原雪斎コンビの力量を見誤ったのではないでしょうか?

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『戦国僧侶列伝 (星海社新書)』(→amazon link
花倉の乱/Wikipedia

 



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