戦艦ポチョムキン

ロシア

戦艦ポチョムキンの反乱!ロシアで実際にあった戦艦乗っ取り事件

1905年(明治三十八年)6月14日は、戦艦ポチョムキンの反乱があった日です。

世界史の教科書で出てきますし、映画や小説にもなっていますので、ご存じの方も多い事件かもしれません。
まずは艦名の由来からいきましょう。

 


女帝の愛人がその名の由来

戦艦ポチョムキン号の正式名称は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」といいます。人名ですね。

本名はグリゴリー・ポチョムキンといい、ロシア帝国の偉大な皇帝の一人である女帝・エカチェリーナ2世の愛人。
最高の相棒でもあった優秀な人物でした。

クリミア半島攻略とその後の統治を見事に成功させた他、公私共に多くの点で女帝の治世を支えています。

ただしその激務がたたったのか。
ポチョムキンのほうがエカチェリーナ2世より10歳下であるにもかかわらず、病気によって先立っています。
超過労働、ダメ、絶対!

彼の訃報を聞いたとき、エカチェリーナ2世は「これからは一人でこの広いロシアを治めなければならないのか」と嘆いたといわれていますから、公式に結婚することはかなわなくても、心から頼りにしていた人物だったのでしょう。

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そんな忠実な人の名前をもらった戦艦ポチョムキン。
残念ながら元ネタの人物は真逆の行動で世に知られるようになります。

まあ、反乱の原因はお偉いさんのポカというか怠慢というか。
「それはないわ」なことなのですが……。

 


納期が遅れて日露戦争の終わり間近に竣工す

ポチョムキン号が起工したのは、1898年秋です。

日清戦争と日露戦争の間ごろ。
ロシア・フランス・ドイツによって三国干渉が行われた後にあたります。

当初は1903年の竣工予定でしたが、建造中の事故とその対処のために作業が遅れ、予定より約2年ほど遅れてようやく完成。
つまり、ポチョムキン号が完成したのは1905年というわけです。

近代史がお好きな方でしたらスグにピンと来たでしょうか。

そう、ポチョムキン号が竣工したのは、日露戦争が終わりかけた頃です。
しかも日付も5月20日ですから、日本海海戦で日本が勝利を収める直前のことでした。

結局、反乱が起きたのが6月14日ですから、もはや何のために作ったのかわからないほどです。
予定通りに竣工していれば、日露戦争で活躍していたかもしれません。

某艦隊これくしょんに登場することになったら、絶対この辺がネタになるでしょうね。古すぎて難しい?

まあそれはともかく、そんなこんなでケチがつきまくっていたポチョムキン号ですから、艦内の空気も決して良いものではありませんでした。

 


つべこべ言わずに(傷んだ)肉を食えや!

反乱の直接の引き金になったのは、なんとランチです。

昼食のボルシチに傷んだ肉が使われていたとされております。
海の上で食中毒でも起こしたら大変ですし、そうでなくても食べたくないですよね。

当然、水兵たちからは不満が湧き上がりましたが、上司からは「元々の(肉の)質はいいんだから、つべこべ言わずに食え!!」という滅茶苦茶な命令が下ります。

手を付けようとしない兵のほうが多く、キレた上司は彼らを命令違反で銃殺しようとしました。
バカに武器を持たせるとろくなことがないのは、古今東西どこでも同じです。

これまた当然の事ながら、水兵たちだって黙ってはいません。
元々、当時のロシアでは戦況の不利により、上層部への不平不満が溜まっていました。

【血の日曜日事件】が起きたのもこの年の1月でしたし、身分が低い人ほどお偉いさんへの反感を持っていたのです。
また、当時の軍艦では「閉鎖的な空間で生活を共にする」という特性上、上官と部下が対立するというのはどこの国でもよくある話でした。

もっと後の時代になりますが、旧日本海軍でも、主に居住区域の劣悪さなどが原因となって、乗務員のストレスが溜まっていたという話はちらほらあります。
有名なものでは、戦艦を無理やり空母にしたせいで艦内が異常な気温になり、「焼き鳥製造工場」とまでいわれた某空母がありますね。

また、戦艦については「海軍の顔である戦艦の乗務員は生半可なヤツではいかん!!」という正論なのか屁理屈なのかわからんような理由で、基本的にどの艦も厳しい「指導」がされていたといいます。
とはいえ、日本の場合は国民性ゆえか、反乱にまで至ることは早々なかったようですが……。

「沈没の原因になった爆発事故の犯人は実は乗員」説が存在する戦艦もありますし、乗員の自殺・逃亡については……お察し下さい。

 

ブチ切れ水平さんが上官を射殺 ついでに革命宣言と来た

一方、ポチョムキン号はロシアの戦艦ですから、乗員のほとんどもロシア人です。

しかも血の日曜日事件のように、
「非武装の民衆vs武装警察」
ではなく、お互いの手の届くところに銃器があったわけですから、どうなるかは自明の理というもの。

傷んだ肉を強要した上官は、キレた水兵たちによってあっという間に殺されてしまいました。
他のお偉いさんたちも拘束され、ポチョムキン号は水兵たちが掌握します。

この動きを知った他の船でもポチョムキン号に追従するものが表れ、ノってきた水兵たちはついに革命まで宣言してしまいました。

蜂起の指導者マチュシェーンコ/wikipediaより引用

夕方にはクリミア半島の東にあるオデッサ(現・ウクライナ)という町に到着。
たまたまオデッサでもストライキが行われており、市民とポチョムキン号の水兵たちと意気投合したとか、しなかったとか。

こうして上々に見えたポチョムキン号の反乱でしたが、中央政府にバレてさっそく鎮圧軍の船が派遣されました。
一時は、鎮圧部隊が砲撃をしなかったことで、ポチョムキン号の面々は「これこのままイケるんじゃね?」と思ってしまいます。

しかし、おそロシアの鎮圧軍がいつまでも反乱を見過ごすわけがありません。

オデッサの市民たちも「あいつらに協力すんのやめようぜ。でないと俺らも討伐されるかも」と考えたか、ポチョムキン号へ水・食料の補給を拒否しました。
誰でも自らの保身が第一とはいえ、世知辛いものです。

 


生き延びた者の中にはフィッシュアンドチップスの店を開いた強者も

じりじりと追いつめられ始めたポチョムキン号。
さらに東へ進んでルーマニアを頼ります。

しかし、ルーマニア政府も「よその反乱に協力するのはちょっと^^;」(※イメージです)と協力を断割らざるを得ませんりました。

「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌がありますが、やせ我慢でなんとかなるのも時間の問題。特に軍艦の場合は、前述の通り閉鎖的な空間で多数の人間が生活を共にするわけですから、一度空気が暗くなってしまったら士気はダダ下がりです。

そんなところで6月22日に鎮圧軍が追いついたものですから、後は皆さんご想像の通り。
命からがら逃げ出した水兵たちは、再びルーマニアへ。

ルーマニアの国旗が掲揚されたポチョムキン/wikipediaより引用

ポチョムキン号を引き渡し、船から降りて亡命すれば助かると考えました。
が、ロシアに戻った者のほとんどは投獄や死刑になり、ルーマニアに残った者の中でも、首謀者の一部はロシアに帰国して処刑されてしまいます。

最後まで逃げ延びた人はトルコ・ロンドンを経由してアイルランドまで逃げ、フィッシュアンドチップスの店を開いて長生きしたそうです。タフやのぉ~。
それもそろはず1987年に102歳で亡くなったといいますから、元からよほど健康な人だったんでしょうね。

ポチョムキン号のほうはというと、反乱時の名前のままでは縁起が悪いということで、返還直後から数回改名されました。
その後はウクライナの船になったこともありましたが、ソ連ができたため実質的にはまたロシアの船になり、1923年に解体されています。

映画化・小説化された事件の当事者にしては拍子抜けするほど穏やかな最後。
まぁ、現実ってそんなもんですよね。

長月 七紀・記

【参考】
ポチョムキン=タヴリーチェスキー公_(戦艦)/wikipedia


 



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