徳川家慶/Wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

12代将軍・徳川家慶 ペリー来航の激動期に空気のような存在なのはナゼ

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嘉永六年(1853年)6月22日、江戸幕府十二代将軍・徳川家慶とくがわいえよしが亡くなりました。

教科書だと見事にスッ飛ばされる将軍の一人ですので『誰?』と思われる方も多いかもしれません。

治世中にはペリーが黒船で殴りこんできたり。
天保の改革が行われたり。
「蛮社の獄」で学者さんたちが牢屋行きになったり。

イベント盛りだくさんなのですが、いかんせん本人の影が薄すぎるんですよね。
一体どんな方だったのでしょう?

 

江戸時代の「院政」犠牲者

徳川家慶が地味なのは、父親である十一代将軍・徳川家斉とくがわいえなりと、さらにその父・一橋治済ひとつばしはるさだからの悪習が原因と言えそうです。

理由は他でもありません。
治済は家斉の、家斉は家慶の実権を奪っていたからです。

院政や大御所政治のようなもので、この頃になると平均寿命が延びてきていたため、その期間もハンパなく長くなっていました。

例えば五十年間も将軍職に就いていた家斉は、そのうち四十年間は治済が取り仕切っておりました。

自分の意思で仕事をやれたのはたった十年程度。
これじゃ自分の子供に将軍を譲っても、そうカンタンに引き下がろうとは思えないですよね。

そのため、家慶もまた最初の四年ほどは父親の言いなりになるしかなく、それをあげつらわれて
「そうせい様」
なんて言われてしまっていました。

どうでもいい話ですが、江戸時代の人って将軍にあだ名つけるの好きですよね。
四代・徳川家綱も「左様せい様」とか言われてましたし、十代・徳川家重は病気のためトイレが近かったので「小便公方」なんて不名誉な呼び方をされています。

江戸時代ってけっこう刑罰がうるさい(そしてややこしい)んですけど、不敬罪とかなかったんでしょうか。

 

ペリー来航で騒いでいるさなかに死亡

ちなみにこのどう考えても後任者のためにならない「院政」風の悪習は、家慶の代で終わりました。

といっても家慶が「やめよう!」と言い出したわけではなく、隠居する前に突然亡くなってしまったのです。

ちなみにこの頃は上記の通りペリーが「開国シナサーイ!」と言って来たあたりで、開国するかしないか、まさに歴史が動く瞬間だったのです。
いくら「そうせい様」とはいえトップがいなくなってはそれどころではありません。

なんせペリーが来てから三週間後というタイミングでの突然死です。幕閣としては途方に暮れたことでしょう。

次の十三代将軍は篤姫の夫・徳川家定
大河『篤姫』では堺雅人さん、『西郷どん』では又吉直樹さんが演じられておりましたね。

徳川家定/wikipediaより引用

 

家茂は早逝し、慶喜はキレてしまい

これでやっと将軍の親政再開か?
と思いきや、家定は生まれつき病弱だったため、やはり積極的に政治を行おうとはしませんでした。

将軍職についてから病状が悪化したともいわれていますので、やる気があってもできなかったのかもしれません。

さらにその次の十四代・徳川家茂も若くして亡くってしまい、十五代・徳川慶喜は皆さんご存知の通りキレ者ではありましたが、幕末のドタバタ過ぎる政争を経て大政奉還し、鳥羽伏見の戦いでもキレてしまって江戸幕府は終焉を迎えました。

こうしてみると、江戸幕府滅亡は一橋治済~家慶までの悪習(口出し=老害)が遠因と見ることもできそうです。

まぁ、そのぶん有能な幕閣・幕臣がいて、必ずしも将軍の責任だけで幕府が潰れたワケではないと思いますが。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
徳川家慶/wikipedia

 



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