陸奥宗光と家族(左が妻の亮子で右下が長男の広吉)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

カミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光53年の生涯~不平等条約を解消した切れ味とは

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6月26日放送の『歴史秘話ヒストリア』で陸奥宗光(1884年生まれ)が注目されておりました。

伊藤博文が総理大臣をやっていた頃の外務大臣。

不平等条約を解消した手腕は「カミソリ大臣」と呼ばれ、ともなると頭脳キレッキレな印象はありますが、実はこの人、生涯そのものがかなりエキセントリックだったりします。

早速、生まれから振り返ってみましょう。

 

竜馬や桂、伊藤とも交流を持ち

彼は奥州伊達家の分家の分家のような立ち位置に当たる、駿河伊達家という紀州(和歌山)藩の家に生まれました。
当初の名前は「伊達陽之助ようのすけ」ですが、宗光で統一しますね。

時代が時代でもあり、父の影響で尊皇攘夷思想に傾いていったのですが、そのトーチャンが失脚してしまったため、一家は困窮するハメになります。

こんな経緯だと「さぞ食うや食わずで苦労したんだろう」と思いきや、息子を江戸へ勉強に出したり、その宗光が吉原に通っていたりするのでその日のメシに困るような生活というわけではなかったようです。

家財か着物を売ったか質に入れたのかもしれません。

ただ、その金で女遊びしたらいかんやろ。
この頃と思しき写真に頭巾を被った姿の宗光が移っているのですが、これがもしかしたら吉原へ行き来する姿かと思うとちょっとジト目で見たくなりますね。

若き日の陸奥宗光/wikipediaより引用

勉学に来たはずが別の方面に励んでいたことは当然お師匠様にバレ、見事破門になってしまいました。

これを宗光はあまり気にしなかったのか。
水本成美という別の先生について勉強を再開しています。切り替え早すぎ。

ただ、ここで坂本龍馬桂小五郎木戸孝允)、伊藤博文と知り合うことになるので、日本の将来的には結果オーライということですね。

どうでもいい話ですが、高杉晋作といい宗光といい、伊藤博文の周辺って奇人変人もといエキセントリックな人が多すぎませんか。
ご本人も花柳界とかフグの逸話からしてアグレッシブですけど。

 

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龍馬と仲良し 暗殺に激高

宗光は特に龍馬と親交が深く、一時期はずっと行動を共にしていました。

それだけに親友が暗殺されたときの怒りは激しく、紀州の一藩士だった三浦休太郎という人物に対し「お前が俺のダチを殺ったんだろそうに決まってるこの野郎!!」(※イメージです)という思い込みで、休太郎の滞在先を襲撃しています。

以前、紀州藩と竜馬の間でイザコザがあったため「竜馬暗殺の黒幕は紀州藩である」との噂が流れていたので、アヤシイといえばアヤシイ相手なんですけどね。
とりあえず落ち着けと。

坂本龍馬の生誕から暗殺されるまで33年激動の生涯マトメ 暗殺犯の正体は?

しかしキレるのは堪忍袋だけではなく頭脳も素晴らしかったので、倒幕後、明治政府に人が必要になった頃、宗光は岩倉具視によって中央へ呼び出されます。

「ちょっと戊辰戦争のアレコレでメリケン(アメリカ)にお金払わなきゃいけないんだけど、アテがないから走り回って集めてくれ」

その額なんと十万両。
もはや数がデカすぎて換算する気にもなれません。

宗光は大阪商人たちの間で交渉を重ね、一晩で借り受けることに成功します。
もはやイリュージョンです。一体何をどうやったんだ。

 

綱渡り人生

こうして中央での政治に入っていくと、
「お前薩摩だからなぁw」
「そっちこそ長州のくせにwww」
だのなんだのと言い続ける他のメンバーに嫌気が差して出奔。

実家の和歌山で静かな生活をしようとしましたが、最初の奥さんが亡くなってしまうなど相変わらずバタバタしていました。
翌年すぐ再婚してるんですけどね。ホント切り替えの早い人だ。

その後政界に復帰。
今度は西南戦争で反政府側と繋がっていたためお縄になってしまいます。どうしてそんなに綱渡りが好きなんだ。

しかも、塀の中でもせっせと妻へのラブレターや本を書いたりと全く悔恨の兆しが見えません。

前しか見ないタイプだったんでしょうか。
ここまで来るといっそ清々しいほどです。見習うべきかもしれない。

特赦によって少し早く牢獄から出ると、何故かその後はヨーロッパへ留学す。
伊藤博文が勧めたらしく、出獄した直後の人間によくそんなお金があったものです。
伊藤が用立てたんですかね。

渡欧後の宗光は、「西洋に追いつけ追い越せ」という言葉のままに猛勉強を開始します。
そのヤル気をもっと若い頃から見せておけというかそろそろツッコミ疲れてきました。

 

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藩閥をこえて実力で抜擢

二年の留学から帰国の後、宗光はいよいよ外交官として働き始めます。

まずはメキシコとの間で日本初の平等条約を結びました。
意外に日本とメキシコって縁が深いんですねえ。

その後、衆議院議員や農商務大臣(現在の農林水産大臣+経済産業大臣みたいな仕事)を歴任。
農商務大臣をやっていた間にあの足尾銅山鉱毒事件が起きていますが、あまり積極的には動きませんでした。

宗光が当時の総理大臣・山県有朋に何か言っていれば、もう少し早く対策が取られていたかもしれません。

どうせなら国外だけじゃなく国内もちゃんと見てほしかったものです。そうしたらもうちょっと多くの人の記憶にはっきり残ったかもしれないなぁ、と……。

外務大臣になったのは、意外にも?最晩年に当たる明治二十五年(1892年)のことでした。
ここから「カミソリ大臣」とまで呼ばれた宗光の辣腕が発揮されます。

江戸幕府がなくなってもずっとそのままだった、各国との不平等条約の改正に動き出したのです。

・領事裁判権
・関税自主権

項目は上記の2つで、相手国はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど計15カ国。
宗光はこの15カ国全員に不平等条約の改正を認めさせた功績でもって子爵の位を与えられ、教科書と歴史に名を残しました。

 

今際の際まで「あのバカタレどもが!」

その後も日清戦争の開始と終結(下関条約締結)にも大きく関わり、特に開始時はロシアやイギリスへ「口出ししないで中立でいてくれますよね^^」という約束を取り付けるなど活躍します。

しかし、彼が外交の最前線で働けたのはここまで。
いつの日からか肺結核を患っていたため、宗光は職を辞して療養生活へ入らざるをえなくなります。

が、国内の別荘はともかくハワイまで行ってるのはどうなのよ?
とやっぱりツッコミたくなってきます。
どう考えても長旅な海外に行くより、国内のあったかいところで養生したほうがいい気がするんですが……。

当初、兵庫で療養していたら、枕元で下関条約へのイチャモン(ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉)についての相談をされたらしいので、イヤになって遠くへ行ったんでしょうか。
なんで命が崖っぷちなときにまた勝負しようとするのよ。

病床での閣議と長距離移動、雑誌発刊のどれが堪えたのかはわかりませんが、外務大臣を辞職した翌年に彼は亡くなります。

享年53。
まだまだ活躍できたはずの年齢でした。

陸奥宗光/wikipediaより引用

かつてキレて政府を出て行った原因である藩閥政治はまだ改善されておらず、今際の際まで「あのバカタレどもが」(超訳)と嘆いていたそうです。

宗光と同様、藩閥をくだらないものと考えていた西園寺公望も「陸奥があの世に行く代わりに、藩閥のアホどもが(ピー)すれば良かったのに」(超訳)というようなことを言っています。

いろいろツッコミどころの多い人ではありましたが、国家の大事というときに出身地のみをあーだこーだと喚く連中よりははるかに必要な人物であったことは間違いないですね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon link
陸奥宗光/wikipedia

 



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