今村均/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 WWⅡ その日、歴史が動いた

軍人・今村均~マッカーサーが「真の武士道」と認めた人格者に感涙必至

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1886年(明治十九年)6月28日は、旧日本陸軍大将・今村均(ひとし)が誕生した日です。

漫画家の水木しげる先生の上官だったので、その話を聞いたことのある方はご存知でしょうか。

写真を見ると軍人というよりお坊さんや好々爺といった単語のほうが似合いそうな人ですが、これはやはり人格が表に出てきているからなのでしょう。

そしてそれは恐らく、自身も苦労や病気に悩みながら成長したからだと思われます。

 

実家は仙台藩の名家で明治維新を機に衰退

今村の家は仙台藩の名家でした。
が、祖父が明治維新の際、新政府側寄りの行動をとったことで、村八分のような扱いを受けるようになってしまいました。

今村の父も名家とは思えないような困窮ぶりの中で育ち、働きながら弟や妹を育て、やがて裁判官となって結婚、多くの子宝に恵まれています。

若い頃からの無理がたたってか。
父は今村が高等学校(今でいう大学)に進むかどうかといったときに亡くなってしまいました。

このままでは父と同じく困窮することになるだろう。
そう考えた今村の母は、息子に「陸軍の士官学校に入ったらいい」と勧めました。

高等学校は自宅から通うものですが、士官学校であれば寮に入るため、食うには困らない――という点が大きかったのでしょう。

しかし軍隊というものが具体的にイメージできなかった今村は、
『まずはどんなものなのか知りたい』
と考え、明治天皇が参加する閲兵式を見に東京へやってきました。

 

おねしょに悩み「小刀で突く」という荒治療も!?

閲兵式そのものをどう感じたのかははっきりしません。
式の終了後、今村は「士官学校に入ろう!」と決意を固めます。

それは明治天皇の姿を見て感動したとか、軍の規律に感激したといった理由ではありませんでした。

御所へ戻る明治天皇の馬車へ民衆が殺到するのを見て、何か熱い気持ちがこみ上げてきたのだそうです。
いかにも当時の人らしい感覚という気がしますが、こういう「言葉にできないけど突き動かされる感覚」ってありますよね。

今村は、閲兵式から帰る途中で母宛に「私は士官学校を受験することに決めました」と電報を打ち、早速地元で試験を受けて見事合格します。
しかし、ここでちょっとしたトラブルが起きました。

今村は小さい頃から夜尿症(おねしょ)に悩んでおり、士官学校に入ってからも完全に治りきってはいなかったのです。
この頃には、しでかす前に起きられるようになっていたそうですが、それがかえって睡眠不足の原因になってしまい、授業中もうたた寝をすることがままありました。

当然、教官からは怒られますから、本人もずいぶん悩んだようです。
軍医や友人に相談するのはもちろん、唐辛子を噛んだり、小刀で突く(!)などの荒療治もしていました。

その懸命さが認められて、教官たちはそのうち「今村はそういう体質だから仕方ない」と許してくれるようになったのだそうです。
ええ話や。

これは今村が授業中の遅れを取り戻すべく、自分でも勉強に励んだからでしょうね。

士官学校を出た後は陸軍大学校(現在の陸上自衛隊幹部学校に相当・つまりエリート養成校)にも入っているくらいですし、そこの教官にも持病のことは伝えられていたそうですから。
つまりずっとこの体質は治らなかったということですが、大学校でも今村は努力を続け、見事主席で卒業しています。

余談ながら、近年でも今村のような夜尿症や、関連する症状に悩む人は多いようです。
原因は機能的なものや、ストレス・疲労など精神面の場合もあるとのことで、お悩みの方は専門医の門を叩いてみてくださいね。

 

オランダとの交渉決裂でインドネシアへ進軍する

戦争が始まってから今村は、オランダ領東インド(現在のインドネシア)攻略作戦を指揮することとなりました。
通称「蘭印作戦」です。

目的はこの近海にある石油でした。
石炭は国内でも採れますが、石油はそうも行きませんからね。

しかしインドネシアは日本から遠く、かつ島国であるため非常に侵攻が難しいところです。そのため、政府としてはできるだけ戦闘を避けようとしていました。
オランダへも交渉をしていたようですが、あえなく決裂し戦争に至っています。

数字と馴染みのない地名が続くので細かい戦闘の様子については省略しますが、だいたいこんな感じです。

【7行でまとめる蘭印作戦】

1・日本人がたくさん住んでいた島を足がかりにする

2・近場の油田地帯に進む

3・あっちこっちでマラリアや吸血ヒルとも戦いながら進攻

4・東南アジア有数の大製油所を確保

5・バリ島他を占拠

6・いわゆる「本丸」にあたるジャワ島攻略のため海戦

7・オランダ領東インド一帯が日本のものに

日本側の予測では120日間で作戦完了の予定が、約3/4にあたる92日間で終了したといいますから、司令官の質と兵の士気の高さがうかがえますね。

ジャワ島内を進撃する日本軍/wikipediaより引用

 

現地でインフラ整備に努め、現地民や捕虜には温情を

とはいえ、何もかも順調だったわけではありません。

日本側の戦死者・負傷者も多数います。
司令官である今村自身も、上記6あたりの海戦で戦闘により船から放り出され、三時間も漂流したといわれています。

当然のことながら通信手段も失われたため、日本軍はしばらく指揮系統が大混乱したそうです。
よくそれで勝てたもんですね。

ここからが今村の本領発揮ともいえるところです。

上記の通り、当時のインドネシアはオランダの支配下に置かれていました。
しかし当然のことながら、地元の人々にとっては気分が良いわけはありません。独立を目指して運動していた人もいましたが、オランダ軍に捕まっていた人もいました。

今村はこうした運動家を解放し、独立のための物資や資金を提供しています。

また、運動家以外の地元民に対しても温情ある態度をとりました。

石油価格を下げたり、オランダ軍の金を元手に学校を建てたり、インフラの整備にも努めています。
自分の部下たちに対しては「現地民に乱暴しないように」と言い含めました。これにはインドネシアの人々だけでなく、官民問わずオランダ人も含まれています。

当たり前のことなんですが、捕虜に対しても粗略には扱いませんでした。
これを象徴する話として、こんな逸話もあります。

 

「木綿を送れ!」本国からの命令をスルー

ジャワ島の特産物の中に、日本でも大量に消費される木綿がありました。
敗戦が近づく頃になると、当然のことながら本国では他の物資同様、木綿も足りなくなってきます。

そこで「ジャワの木綿を送れ」という命令が今村の元に届きました。
普通の軍人であれば、素直に従うか、あるいは命令以上の量を送るかどちらかだったでしょう。

しかし、今村はそのどちらもしませんでした。

ジャワ島では、お葬式の際に木綿の布で遺体を包むという習慣があったからです。
もちろん日常的にも使っていました。
それを地元民からぶんどってしまっては、反感を招いて何もかもダメになってしまうと考えたのです。

当然、日本のお偉いさんからは怒られましたが、中には「今村のところが一番うまくやっているのに、怒るのは筋違いじゃないんですか」(意訳)と言ってくれる人もいました。

児玉源太郎の長男・秀雄です。
この人は議員なので、直接軍事には携わっていませんが、やはり英雄は英雄を知るものなのですね。

ジャワ更紗やバティックと呼ばれ、ユネスコの無形文化遺産にも登録/photo by MartijnL Wikipediaより引用

なんで同じお偉いさんの中でこんなに考え方の差があるのかというと、当時の日本が掲げていた「八紘一宇はっこういちう」というスローガンを曲解した人が多かったからです。

八紘とは八つの方位、転じて世界中という意味です。
また、一宇とは家の屋根のことをさします。

ものすごく単純に言うと「人類皆兄弟だから仲良くしようぜ!」というのが原意なわけですが、これを「同じ屋根のうちでも日本人が一番エラいんだから、進攻先で何をしてもおk!」という「何がどうしてそうなった」な解釈をした人がたくさんいました。

そのせいで、今村のように原義を重んじる人の肩身が狭くなってしまったのです。

この言葉に関しては他にもいろいろあるんですが、話が進まなくなるのでそろそろ今村の話題に戻りましょう。

 

ラバウルを自給自足な要塞に作り変える!

蘭印作戦の後、今村はラバウルという都市に赴任しました。
現在のパプアニューギニアにある町で、水木しげる先生が今村に会ったのもここでのことです。

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ジャワで上記のような軍政を改めなかったための左遷だともいわれていますが、今村はここで、かつてから親交のあった山本五十六とも会い、山本が戦死した際には泣いていたとか。

また、全体的な戦況としても楽観はできなくなっていました。

「餓島」とまで呼ばれたガダルカナル島の惨状を知っていた今村は、二の轍を踏むまいとラバウルを堅固かつ自給自足可能な要塞に作り変えました。

地下には病院や武器工場を作り、地上には田畑を増やさせ、自らも畑仕事をしていたといいます。
もちろん、ここでも部下や現地住民への思いやりは忘れませんでした。

この情報は米軍にも知られていましたが、その頃には既にラバウルの自給自足体制は完全に整っており、軍事的機能を奪われて他の島と連絡が取れなくなっても、占領されることはありませんでした。

ラバウル航空隊/Wikipediaより引用

 

死刑判決を覆したのはラバウルやインドネシアの住民たち!?

そのまま終戦を迎えた今村は、戦勝国によって軍法会議にかけられます。

一時は死刑判決が下りそうだったのに、現地住民らの弁護があり、禁錮10年で済みました。
連合国側では死刑にしたかったようです。

それが、あまりにも住民に慕われていたので、
「今村を処刑してしまうと彼らの蜂起につながる恐れがある」
と判断されたようです。

ラバウル以外でも、インドネシア独立活動をしていた人々が救出作戦を立てていたといいますから、今村の温情は何年経っても忘れられていなかったのでしょう。

その後は巣鴨拘置所(通称・巣鴨プリズン)に送られ、10年過ごすはずでした。

が、旧日本軍のうち、裁かれた人が全員帰国したわけではありません。
南方で服役している人たちもたくさんいました。

それを知った今村は、「自分だけ日本にいることはできない」として、自らパプアニューギニアのマヌス島刑務所へ送ってくれと言い出します。
しかもただ看守に言ったのではなく、妻を通してGHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサーに訴えたのでした。

これを聞いたマッカーサーは
「これこそ真の武士道だ」
と感じ、すぐに許可を出したといいます。

マヌス島にいた元部下たちも、今村を大歓迎したとか。
苦しいところに自らやってきてくれる上官なんてほとんどいませんし、もともと慕われていたでしょうしね。

厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(右から2番目)/wikipediaより引用

 

刑期を終えて帰国しても終生自責の念に……

10年間の刑期を終えた後、今村は再び日本に戻ってきました。

それからも自責の念は止まず、自宅の片隅に小屋を建て、自ら謹慎を続けていたそうです。
収入は軍人恩給だけでした。

今村は回顧録を出版して印税を得ていますが、それは戦死や刑死した者、生きて返ってきた者問わず、元部下のために使っています。
中には嘘をついて今村に金をせびる者もいたそうですが、そうと気付いても拒まなかったとか。

軍を指揮していた側として、例え部下でなくても戦争のせいで困窮することになってしまった人々に対し、責任を感じていたのでしょう。
薬で自決しようとしたこともあるそうですから。

亡くなったのは刑期を終えてから14年後、昭和四十三年(1968年)のことでした。
82歳ですし、特に記録もないので、おそらくは穏やかに老衰で亡くなったものと思われます。

若い頃には自らの体質、長じてからは旧軍の体制、そして戦後は良心の呵責と向き合った人生でした。

戦場を職場と置き換えて考えてみると、これほど「理想の上司」という言葉が似合う人もいないように思えます。

もちろん人間ですから、今村にも多少の欠点はあったことでしょう。
しかし、当時の状況下で思いやりの心を忘れなかったこと、生存した上官としての責任を果たしたことは紛れもない事実です。

旧軍や「戦争に学ぶ」というとひたすら悪い部分しか報道されませんが、こういった人格者から学べることも多々ありますよね。

事実を伝えるのなら、欠点や悪事ばかりではなく、今村のような立派な人物についても広めるべきではないでしょうか。
個人的には「責任の取り方」の代表例として道徳の教科書に載せるべきだと思うんですけど、ダメですかね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
今村均/Wikipedia

 



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