伊達吉村/wikipediaより引用

江戸時代 伊達家 その日、歴史が動いた

仙台藩中興の祖・伊達吉村~財政を立て直しながら評価が低いのはナゼ?

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延宝八年(1680年)6月28日は、後に仙台藩五代藩主となる伊達吉村が誕生した日です。

二代藩主忠宗の八男・宗房の息子なので、吉村は政宗のひ孫にあたります。

しかし宗房が宮床伊達氏という別の家を立てていたので、本家ではなく親戚扱い。
仙台ではなく現在の岩手県一関市で生まれ育ち、小さい頃は地元のお寺で教育を受けていたといいます。

当初は仙台藩の支藩である一関藩を継ぐ予定でした。

それが、当時は伊達騒動の余波とその他諸々で安定しておらず、さらに四代目伊達綱村に跡継ぎがいなかったことから、ちょうど良い年頃の吉村が本家の養子になったのです。

元服は10歳、その後16歳で当時の将軍・徳川綱吉から一文字賜って「吉村」と名乗るようになります。

実際に藩主の座についたのは23歳のときで、同じ年に公家の久我通名こがみちなの娘・冬姫を正室に迎えました。
夫婦仲に関する逸話は特にありませんが、後の六代藩主・伊達宗村の他、五人の娘に恵まれているので、割と仲はいいほうだったんじゃないですかね。

娘のうち三人は早世してしまっています。
この時代のことですから仕方がない……というのは少々冷たいでしょうか。

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藩札の発行費用だけで数億円のコストが!?

藩主継承及び結婚の翌年、吉村は初めて仙台に入ります。
そしてさっそく、財政再建という大仕事が始まりました。

江戸時代中期の大名ってだいたいこんな感じですよね。

当時の仙台藩は普通のお金だけでなく、藩札はんさつ(藩の中でだけ通じるお金)で経済を回していました。
が、これに対応するために余計なお金がかかる、という本末転倒な状態が続いていたのです。

その費用は、なんと参勤交代に匹敵するレベルになっていたといいますから世話ぁない。
ちなみに仙台藩の場合、参勤交代の費用はだいたい3,000~5,000両くらいです。

江戸時代は時期によって貨幣そのものが変わったり、物価か人件費かどうかでお金の価値が変わるので、現代の金額に換算するのは難しいのですが……。
敢えて計算すると1両=13万円ぐらいだとして、考えてみましょう。

単純に考えて、3億9,000万~6億5,000万くらいのお金を藩札関連だけで消費していたことになりますね。
コスト管理ってレベルじゃねーぞ!

 

検地をやり直そうとした家臣たちから猛反発

こんな調子ですから、仮に吉村でなくても
『だみだ、こりゃ、早く何とかしないと』
と思ったことでしょう。

とはいえ、藩主の病気など、よっぽどの理由がなければ参勤交代をやめるわけにはいかないので、一定以上の扶持をもらっている藩士から少しずつお金か米を出させて、藩札対応にあてました。

しかし、それでもその年の赤字は12万3,000両にもなったといいます。
もはや換算するのがアホらしいレベルですね。

しかもこのタイミングで幕府からは「東照宮の普請よろ^^」(※イメージです)と命じられてしまい、江戸や京都の商人から合わせて7万3,700両も借りて、お役目を果たさなければなりませんでした。

この状態でよく借りられたもんですね。
江戸で散財していたわけじゃなかったから、よそにはバレてなかったんでしょうか。

こんな感じで、仙台藩の財政は火の車どころか燃えカスも残らないような状態。
そこで吉村はもう一度収入をきちんと把握すべく、検地をやり直そうとします。

が、仙台藩では家臣たちに禄(給料)ではなく土地を与えて、そこから収入を得させていたため、まず家臣たちから反発を食らいました。

仙台藩士は自らが田畑を耕作していたのです。
検地をやり直されたら仕事が増えるかもしれませんし、仕事が減ったら減ったで今度は収入が減りますから、どっちにしろ検地をやられたら損しかない。

そのため「検地をやり直して収入アップ作戦」は失敗に終わりました。

 

西日本で享保の大飢饉が起き、米を売ったら50万両を超えた

しかし、そこで諦めるわけにはいきません。

吉村は次に、役職の整理に乗り出します。
無駄な役の廃止や統合をして、余計な出費を抑えようというものです。

平行して、藩内で採れる銅を使って銭を作ったり、農民が貯めていた余分な米を出させて江戸で売ったりと、お金を動かす方法をいくつか試しました。
……何だか現代のアレコレと似ている気がしますね。

まあその辺はともかく、人員整理とお米売却作戦は当たりました。
西日本で享保の大飢饉が起きたため、仙台藩産の米を売って50万両超の利益を上げたのです。

これによってようやく単年度黒字になり、仙台藩の家計からようやく火が消えたのでした。
とはいえ、農民に無理強いをした上でのことですから、あまり評判は良くなかったようですが……。

義父にあたる綱村からは
「吉村は頭が良くて優しいが、理屈に偏りすぎる癖がある」(意訳)
と評価されたことがあるので、日頃からそんな感じだったと思われます。

おそらくや内面の優しさが外に伝わりにくい感じだったんでしょうね。
「仙台藩中興の祖」といわれる割に、他の大名や家臣との逸話が見当たらないのもそのためかと。

 

自画像を自ら描くほど絵画が好きだった

吉村には和歌や絵画を得意とするという面もありました。
和歌は伊達家代々のたしなみですが、絵が好きな大名は珍しいですよね。

しかも彼の場合、日本ではあまり描かれなかった自画像まで手がけています。
現在仙台市博物館に収蔵されている吉村の絵は、彼自身が描いたものなんだとか。

 

また、伊達家初代・朝宗から自分までの21人の当主の肖像画を作らせているのですが、その下絵も吉村が手がけたといわれています。

「自分が好きなことはできるだけ自分でやる」
というのは、藩祖の伊達政宗とよく似ている感がありますね。やはり血筋でしょうか。

そんなこんなでなんとか仙台藩はうまくいくようになった……といいたいところなのですが、米に頼りすぎたことで、天明の大飢饉の影響をモロにくらうことにもなります。

ホント、国の舵取りは難しい。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
伊達吉村/wikipedia

 



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