絵・富永商太

豊臣家 北条家 その日、歴史が動いた

北条親子の降伏で秀吉の天下統一事業ほぼ完成!仕上げは小田原→東北へ

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もともと平民に過ぎなかった豊臣秀吉は、なぜあそこまで頂点にまで上り詰めることができたか?
考えてみると理由は色々ある気がします。

「人たらし」と呼ばれるほどの人心掌握術。
地頭のキレ。
そして使うべきときには惜しみなくお金を放出する大胆さは、合戦の中で大きく発揮されました。

「城攻めといえば秀吉、野戦といえば家康」
そんな評価が定着している通り、備中高松城の水攻めや

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それまで前例のないような大規模な作戦を成功させることができたのも、器用さと頭の良さが成せるものでしょう。

今回はそんな秀吉の攻城戦の中でも、ひときわ規模の大きいあの戦のお話。
これで秀吉の天下統一事業がほぼ完成とあいなります。

photo by お城野郎

 

小田原城を落とすだけでなく関東一円が戦場

天正十八年(1590年)7月5日。
秀吉以下25万もの大軍が取り囲んでいた後北条氏の本拠・小田原城が開城しました。

兵数には諸説あるのでとりあえず「大軍」だったということでご理解ください。

この戦で何がスゴいのか?
というと、やはり戦闘範囲の広さでしょう。

関東きっての大大名を相手にするのですから、当然、小田原城一つを落とせば済むというものではありません。

ヘタをすると主だった将が一族や重臣の城に逃げ込んで長引くばかり。
それに小田原城は上杉謙信も武田信玄も落とせなかった上、さらに改築増築を重ねて城塞化していました。

真っ向から戦っても数で押すことはできたでしょう。
しかし、兵糧をはじめとした物資、ひいては費用がどれだけかかるかと考えれば得策ではないですよね。

となると、小田原方につく周辺地域の城を全て落とし、孤立無援にすることによって小田原城内部に厭戦気分を漂わせ、降伏を促すというのが上策になります。

そこで秀吉は小田原への道中にあった山中城を落とし、本命を囲んだ上でさらに周辺の城(支城)を攻めました。

山中城跡の障子堀

流石に秀吉があっちこっちに行くわけには行かないので、石田三成など信頼できる部下や、既に秀吉についた大名たちにそれぞれ任せます。

八王子城や韮山城など徹底抗戦した城もあれば、ほとんど抵抗もせず城を明け渡したところもある。
こういうときに守将の人柄が出ますよね。

 

忍城攻めには三成はじめ吉継や真田一族など

局地戦にも三成・吉継・真田親子などの秀吉が配下を総動員した戦なだけあって、実はこの局地戦もなかなか豪華なメンバーだったりします。

例えば小説『のぼうの城』で有名な忍城おしじょう(埼玉県行田市)では石田三成・大谷吉継に加え、真田昌幸真田信繁真田幸村)が攻め手になっていたりとか。

また、八王子城(東京都八王子市)では上杉景勝・直江兼続前田利家などが攻め込みましたが、主である北条氏照が小田原へ行っており、わずかな将兵が残るのみでした。

ほとんど女子供と老人で、まともに戦える状態ではなかったそうです。
そのため戦えない者は皆自刃、あるいは裏手の川に身を投げたといわれており、今でもその恨み嘆きが亡霊となって現れるとかないとか。

八王子城の御主殿

守将の切腹、もしくは降伏と引き換えに非戦闘員の助命嘆願くらいはしたと思うのですけれども、聞き入れてもらえなかったのかもしれません。

城主の正室や周辺の女性が女好きの豊臣秀吉に侍らされるかもしれない、と思って潔く死ぬほうを選んだのかもしれませんが。

 

秀吉外交は政宗の東北にまで伸びる

さらに秀吉は、戦だけでなく外交についても手を打ちました。

後北条氏以外の関東・東北の大名へ
「ワシ今度北条をやっつけるんだけど、来ない家は一緒に片付けちゃうからヨロシク^^」(超訳)
という手紙を送ったのです。

小田原城と後北条氏に比べれば、その他の大名など物量・兵数で勝てないことは明白。

そのため、彼らはこぞって秀吉へ
「反応が遅くてすみません何せ田舎なので申し訳ないお許しくださいませm(_ _)m」(超訳)
という態度を示しました。

ここで一度ガン無視しようとしていたのが戦国一ネタに困らない男・伊達政宗
詳細は以下のマトメ記事でご覧いただければ幸いです。

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こうして戦と外交両面から攻められ、しかも多くの支城を失った小田原城はまさに裸同然。
そもそも戦の始まる前から内部分裂に近いグダグダ状態だった上、八王子城の惨劇が知らされると、後北条一族も戦意を失くします。

そして黒田官兵衛と滝川雄利が交渉に出向き、その後アレコレの交渉を経て、小田原城は7月5日に開城となりました。

 

氏政と氏照らは切腹 氏直は赦されるものの……

小田原周辺での戦闘は大したものではありませんでしたが、RPGでいえば北条一族はボス戦みたいなものですから、開城したからといってそのまま生かしておくわけにはいきません。

前当主・北条氏政と八王子城主・北条氏照は切腹。
当時の当主だった北条氏直は徳川家康の婿だったこと、自ら切腹を申し出て城兵の助命を嘆願したので高野山行きで済みました。

秀吉の意図がよくわかりませんが、主戦派と言われていた二人だけを切腹させ、降伏した者を許すことで温情を示そうとしていたのかもしれません。

ヘタに一族皆殺しとかやっちゃうと、ほとんどの場合どこかから落胤を担ぎ上げたり、旧臣が団結したりしてまた戦になることが多いですからね。

ついでに言うと、氏直はその後赦免されましたが、翌年、30歳で亡くなっています。
キナ臭いなあ。

こうして国内でも稀に見る大きな城を落としたことで、秀吉の天下統一はほぼ完成したのでした。

なお、小田原征伐の攻略について、もう少し詳しい過程をお知りになりたい方は以下の記事をご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
小田原征伐/wikipedia

 



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