幾何学的曲線を描く流路の大河津分水/photo by BehBeh wikipediaより引用

明治・大正・昭和

信濃川 最古の洪水記録は888年~日本4番目の暴れ川からコシヒカリは生まれた

明治三年(1870年)7月7日は、新潟県を流れる信濃川の水害対策のため「大河津分水工事」の起工式が行われました。

「日本最長の川」として地理の授業で必ず習いますし、この川の名前に聞き覚えがある方は多いでしょう。

もちろん、地域の歴史にも深く関わっており、今回は遡ってその様子を見て参りましょう。

 


年貢米のみならず海産物や塩、茶なども運ばれた

信濃川には、大きく分けて二つの面があります。

一つは、水運の道としての役割です。
特に江戸時代には、年貢米の運搬のために信濃川が活用されていました。

商船が通ることもできたのですが、あくまで年貢米の船が優先で、その合間をぬって商船が通るという状況だったそうです。
それでも相当の利益を生んだといわれています。

このあたりは険しい山のために道を切り開くことも難しく、人力や動物で荷物を運ぶのはコストがかかりすぎるからでしょうかね。

下流からは海産物や塩、茶など、比較的軽いものが多く運ばれました。
信濃川は長野県内だと「千曲川ちくまがわ」という名前になるのですが、その辺りまで運んでいたようです。

明治になってからは機械化された船が出てきて船運の効率も上がったものの、同時に陸路も開発されたので、徐々に船の需要は減っていきました。
この辺はどの地域でも同じですね。

 


信濃川(千曲川)も含めて日本四大暴れ川?

そしてもうひとつの面が、この地域で水害が頻発する原因になっているところです。

よく水害が起きる川を「暴れ川」といいますが、なぜ信濃川が日本三大暴れ川に含まれていないのか疑問を抱くレベルです。

ちなみに日本三大暴れ川は、以下の3つ。

・利根川
・筑後川
・吉野川

それぞれ

・坂東太郎
・筑紫次郎
・四国三郎

という異名までついています。
日本流のブラックジョークなんですかね、こういうの。信濃川(千曲川)まで含めれば「信濃(千曲)四郎」と呼べるかもしれません。

 


最古の洪水は888年

千曲川流域での最古の洪水は、仁和四年(888年)とされています。

直接の関係はありませんが、この年に菅原道真が赴任先の讃岐(現・香川県)で雨乞いをやっていたりします。
いつの時代も降ってほしいところに降らず、これ以上降らないでほしいところには降らないものなんですね(´・ω・`)

同河川で史上最大の洪水といわれているのは、江戸時代・寛保二年(1742年)に起きた「戌の満水」と呼ばれているものです。
江戸時代の千曲川流域だけで64回の水害が起きていたそうですから、だいたい4年に一度は大洪水が発生していたことになります。オリンピックか。

近代に入ってからも、明治~大正7回、昭和11回(以上?)、平成5回とかなりの頻度。
昭和年間については戦時中の記録がすっ飛んでる可能性があるので、20回前後くらいが実際の数じゃないかと思われます。

信濃川の範囲で広げてみますと、明治~大正6回、昭和16回(以上?)、平成2回だそうです。近隣でお暮らしの方はさぞかし辛い思いをしていたことでしょう。

 

謙信は何も手を打たなかったのか?打てなかったのか?

さて、信濃川=越後=新潟ということで、上杉謙信を連想される方も多いかと思います。
しかし、謙信が治水工事を積極的に行っていたという記録はありません。

ライバルの武田信玄には「信玄堤」の逸話がありますし、これだけ洪水が頻発して民衆が困っているのに、謙信が治水に力を入れていなかったというのは意外ですよね。
本拠・春日山城から信濃川までは100kmもありませんから、さすがに知らぬ存ぜぬでは済まない範囲でしょう。

たぶん見殺しにしたとかそういう話ではなく、謙信といえども、自然の力には勝てなかったということですかね。

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軍神の一面ばかりが注目される謙信ですが、塩や青苧(あおそ・繊維がとれるイネ科の草)で収益を上げたりしており、政治や経済オンチだったわけでもなさそうです。

信濃川をどうにかすれば民が助かり、米もさらに採れるようになって皆万々歳ということは理解していたハズ。
それだけに、謙信も信濃川の被害については歯がゆく思っていたのではないでしょうか。

信濃川の水源は甲武信ヶ岳(こぶしがたけ・山梨・埼玉・長野県の堺にある山)ですから、関東攻略の行き帰りに山を眺めて、唇を噛んでいたかもしれません。

謙信の跡を継いだ景勝や、その執政であるミスター慇懃無礼の直江兼続は、この川をどうにかすべく開削工事などを行っていたようです。

が、根本的な解決にまではなりません。

そのため、この地域の住民は自分たちで洪水に備えようと、堤防を各所に築いていたようです。
ただし、統一された基準や計画がなかったために、堤防全体の強度や効果は不完全で、洪水を完全に防ぐことはできませんでした。

 


家屋が2万5000戸も流出 1897年の大水害「横田切れ」

そうこうしているうち、明治二十九年(1897年)7月22日に「横田切れ」と呼ばれる大水害が起きてしまいます。

現在の新潟県燕市横田にあった堤防が、折からの長雨で決壊してしまったためにこう呼ばれているものです。

家屋の流出が2万5000戸もあったそうですから、その被害は想像を絶しますね……。
しかも平野まで流れ出た水がなかなか引かず、夏の暑さも手伝って、伝染病まで流行りだしたといいます。それによってさらに死者が増え……と、まさに地獄と呼ぶべき様相でした。

元々水害が多い地域とはいえ、この被害は空前絶後といっても過言ではありません。

そこで国が「大河津分水路」の工事に乗り出し、本格的な対策が試みられます。

これ以前から工事の計画はあったそうなのですが、「下流にある新潟港の運営に支障が出るかもしれない」という懸念などによる地元住民の反対が根強く、工事を中断していたんだとか。皮肉なものです。

国内外から最新の機械を導入したこともあって、大河津分水路は着工から13年後、1922年に完成しました。

これを長いと取るか短いと取るかは人それぞれでしょうけれども、この間に地滑りが三回起き、うち一回は掘削した部分がまるごと埋め戻されるような状態だったことを考えると、やり通しただけでスゴイですよね。

 

そしてコシヒカリが広まった

その後農業用水の分が流れなくなるなどのトラブルに見まわれながらも、たびたび改修や補修が行われています。最終的な完成となったのは、近年も近年。
なんと2011年のことです。
だからこそ1922年以降もたびたび水害が起きていたんですね。

今では堤防沿いに桜が植えられたり、信濃川流域で伝統的なお祭りの他、昭和二十年(1945年)8月1日の長岡空襲の死者を弔う長岡まつりの花火が打ち上げられたりと、文化的な面が強くなりました。

また、豊富な水量を活かし、日本有数のダム発電も行われています。

そして、信濃川の水害がおおむね収まるのと入れ替わりに、新潟を象徴するモノが登場しました。

みんな大好きお米の名ブランド・コシヒカリです。

コシヒカリの開発自体は戦時中に行われていたのですが、なにせ状況が状況なので新しい品種の栽培をしている場合ではなく、広まったのは戦後になってから。

大河津分水の大規模な補修が終わり、安定して使えるようになったのが昭和六年(1931年)ですから、ちょうど戦争を挟んで、新潟県全域で安心してお米作りをできる下地が整ったと考えることもできるでしょう。
それまでは新潟の気候とお米の特徴が合わず、新潟産の米はなかなか良い評価を得ることができなかったといわれています。

新潟の気候に合うコシヒカリという品種の登場と、大河津分水の安定した運用が可能になったことによって、新潟は一気に米どころになったのです。

願わくば、信濃川にはこのまま鎮まっていてほしいものですね。

長月 七紀・記

【参考】
信濃川大河津資料館(公式サイト)
信濃川/国土交通省
大河津分水/wikipedia
信濃川/wikipedia


 



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