江戸時代 その日、歴史が動いた

清水徳川家(御三卿)の当主が「腰掛け」ばかりだったモヤモヤな理由とは

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親子きょうだいが似ているのは当たり前のことですが、たまにおじさんやおばさん、はたまたいとこと似ている……というケースもありますよね。

かと思えば「他人の空似」なんて言葉もありますし、「世の中には同じ顔の人が三人いる」なんて言われたりもします。
後者は科学的な検証によると「三人どころかもっといるかもしれない」らしいです。

実に不思議なものですが、今回はもうちょっと長いスパンでそんな雰囲気を醸し出した、とある家の事情をお話したいと思います。

寛政七年(1795年)7月8日は、清水徳川家の初代当主・徳川重好とくがわしげよしが亡くなった日です。

清水徳川家は「御三卿」の一角となる家ですけれども、他の二家(田安家・一橋家)と比べて、ある特徴を持っています。
まずは重好の生涯から見ていきましょうか。

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田安家、一橋家に続くもう一つの分家

重好は、九代将軍・徳川家重の次男です。
十代将軍となった徳川家治が特に問題なく育ったので、早くに行き先を決めなくてはなりませんでした。

といっても、徳川宗家の人間が特に問題もなく出家するのも、外聞や威厳に関わります。
そこで家重は
「そうだ、父上の真似をしよう」
と思い立ちます。

「真似」というのは他でもありません。
江戸城のすぐ側に住む親戚として、田安家・一橋家の他にもう一つ分家を作ることでした。

徳川家重/Wikipediaより引用

江戸時代の大名家では、いつどんな理由で跡継ぎがいなくなるかわかりません。
戦がなくても、天災や病気、あるいは「不慮の事故」で男子が亡くなることは珍しくありませんでした。

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そのため、できるだけ近い血筋の親戚は不可欠だったのです。
もっとも、その親戚がゴタゴタの元になったりもしますので、諸刃の剣でもありましたが。

 

家も近けりゃ、血筋も近い そして仲も良かった家治と重好

「善は急げ」とばかりに家重は、14歳で重好を元服させ、早々に清水家の当主として外に出してしまいます。

といっても屋敷の位置が現在の日本武道館あたりですので、江戸城本丸(現在の皇居東御苑)から歩いて15分もかかりません。

家格は御三家の次とされ、石高も最初10万石。
三年後、さらに10万石を加増されており、将軍の弟としては申し分ない立場といえるでしょう。

家も近けりゃ、血筋も近い。
ということで、兄・家治や、家治正室・倫子女王もたびたび清水家の屋敷を訪れています。徳川家……というか武家には珍しい、仲の良い家族だったのでしょうね。

家治は祖父の徳川吉宗から寵愛されて育ったので、正室を始め、他者に親愛を抱き、それを露わにすることが多かったように思えます。
やっぱり小さいときの環境って影響するのでしょう。

一方の重好は、一族の中では年少だったため、政争では年長者に押し負けるようになっていきます。
特に、家治の長子・家基が亡くなったとき、一橋家の豊千代(後の十一代将軍・徳川家斉)が家治の養子になってからは顕著でした。

武家では、兄弟の順に家督を継承したり、弟が兄の養子になることも珍しくありません。
そこを押し切ったのは、豊千代の父・治済でした。

 

「チャンスさえあれば将軍になれる」という立場が……

治済は一橋家の初代当主であり、吉宗の三男・徳川宗尹むねただの息子です。

話は、8代将軍吉宗→9代家重の引き継ぎ時まで、遡りますが……。

当時、家重は身体的障害のため家督継承が難しいと思われておりました。
そのため「九代将軍は吉宗長男・家重ではなく次男の徳川宗武に――」という噂が立っており、その声があまりにも大きかったので、宗武はてっきり自分が将軍になるものと思い込みます。

しかし吉宗は、あくまで長幼の順を重んじ、家重を将軍にしました。
それをなだめる意味もあって、次男・宗武と三男・宗尹を、家の外に出したわけです。

それが後に御三卿となるんですね。

御三卿ですから
「チャンスさえあれば将軍になれる」
という立場。
宗武や宗尹は、息子たちが将軍に就くよう焚き付けることになりました。

宗武は、公然と兄の将軍就任を批難して吉宗に怒られたことがありますし、宗尹は芸術や菓子作りを愛するおとなしい面と、鷹狩を熱狂的に好むという危うい性質を持ち合わせていました。

そんな状況を間近で見たであろう治済が、野心を抱かないわけがありません。

しかし、他に徳川の血を引く男子がたくさんいる中で、家重の嫡男・家治よりも年上の自分が将軍に就くのはほぼ不可能。
となると、息子を傀儡にして実権を握る……というのが一番やりやすくて現実的なわけです。

重好は、その煽りをくらった形になりますね。

 

田沼意次に賄賂を送り、将軍にしてもらうだと!?

重好に関する目立ったエピソードはありません。
が、おそらくは温厚で権力欲があまりなかったのでしょう。

コケにされたも同然の扱いに対して、不平を鳴らしたとかいう話もないようです。

それだけに、重好に仕えていた家臣たちは歯がゆい思いをしていたと思われます。
実際、天明八年(1788年)に幕府に対して
「清水家でアヤシイ動きをしている者がいます」
と報告されたことがありました。

首謀者は長尾幸兵衛という人物で、田沼意次に3万両もの賄賂を送り、重好を将軍にしてもらおうとしていたようです。

賄賂や陰謀はよろしくありませんが、逆にいえば、家臣がそうしたくなるほど重好がデキた人だったのでしょう。
上が立派だと、下もやる気が出ますからね。

もっともこの頃の意次は既に老中をクビになっていますし、亡くなる直前でしたのでどこまで頼りになったか、あるいはこの話そのものの真偽もなんだか怪しく……。

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重好はそのまま、特にトラブルも功績もなく、50歳で世を去りました。
家治の男子も既に亡くなっていたため、家重の血筋はこれで断絶してしまっています。

最初からそんな感じだったためか、清水徳川家はその後も実子による相続が行われませんでした。

将軍の弟や次男以降の人が一時的に清水家に入り、御三家のどこかに再び養子に行くということが繰り返されたのです。

二昔前の腰掛け就職のようですね。
そのため、清水家から直接将軍に就いた人はいません。

 

明治維新後は爵位を返上するも昭和になって再び男爵に

江戸時代で最後に清水家当主となったのは、徳川慶喜の弟であり水戸徳川家出身の徳川昭武でした。

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しかし、幕末に慶喜・昭武の長兄で最後の水戸藩主・慶篤が亡くなったため、昭武は水戸家の家督を継ぎます。

代わりに明治初期までは昭武の甥・篤守が清水家を継いでいますが、明治十七年(1884年)の華族令で伯爵を授けられた後、経済的事情により明治三十二年(1899年)に爵位を返上して一般人同然となりました。
江戸時代もそうでしたが、お偉いさんはお偉いさんで面子を保つための費用がかさみ、てんてこ舞いだったのです。

その後は清水家自体が歴史の表舞台に立つこともなくなりました。
が、篤守の嫡子・好敏が、陸軍航空兵分野確立などの功績により、昭和三年(1928年)に男爵になっています。

血が繋がっていないにもかかわらず、清水家は何だか重好の性格がよく現れているような気がしますね。
不思議なものです。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
徳川重好/Wikipedia
清水徳川家/Wikipedia

 



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