山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用

その日、歴史が動いた 諸家

山中鹿之介(山中幸盛)の忠義に惚れてまうやろ!七難八苦に立ち向かった生涯

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天正六年(1578年)7月17日は、尼子家の家臣・山中幸盛が謀殺された日です。

山中鹿介や山中鹿之介(しかのすけ)の通称、あるいは、
「我に七難八苦を与えたまえ」
と三日月に祈ったという強烈なエピソードで、戦国ファンにはかなり有名な人物ですね。

更には尼子三傑(十傑)に数えられたり、「山陰の麒麟児」などと呼ばれたり、とかくエピソードに事欠かない人です。
一体どうしてそうなったのか?

見てまいりましょう。
※本稿では「山中鹿之介」で統一させていただきます。

 

尼子家臣の家に生まれた山中鹿之介

山中鹿之介は、山陰地方の雄・尼子家の家臣の家に誕生。
父・満幸は早世していたために生活は苦しく、母・なみの女手一つによって育てられたといいます。

幼少期から聡明かつ勇猛果敢だったと言われていますが、彼の生涯は江戸時代の講談で大きく脚色されたと考えられますので、どこまで本当かはアヤシイところ。
もちろん、並の人物ではないことは間違いないでしょう。

鹿之介が歴史に名を残すことになったのは、ズバリ主君である尼子家が滅びたからです。

敵は毛利家。
厳島の戦いを終え、大内氏を滅ぼし、中国地方の覇者として毛利元就が駆け上がり始めた頃のことでした。

毛利元就/wikipediaより引用

一方、尼子では当主・尼子晴久が急死し、その息子・義久に代替わりして間もないころ。
この義久が、元就と張り合うにはとても力不足だったのでした。

毛利軍は尼子氏に与する国人らを次々と味方につけながら進んできます。
そして、永禄五年12月(1563年1月)には尼子氏の本拠・月山富田城攻めを本格化させました。

序盤は尼子軍が勝ったこともありましたが、少しずつ補給線を断たれて月山富田城は孤立。
ジリ貧状態になっていきます。

しかし月山富田城は「天空の城」と呼ばれた要害です。

さすがの元就もすんなり落とすことはできず、一度撤退しています。
そして半年後、再び城攻めを開始しました。

実力者だった尼子晴久がもしも生きていれば……/Wikipediaより引用

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毛利に負けた2年後、尼子家再興運動を始めた

鹿之介はたびたび一騎打ちでの勝利や夜襲を成功させるなど、多くの戦功を挙げていました。

しかし、半年ほどで城内の兵糧が底をつきかけ、逃亡者も出始めます。
もはや戦闘続行は不可能……。

1566年、義久は、ついに毛利軍に降伏を申し出ます。

侵攻から3年。
よく持ち堪えたと言うべきでしょうか。

義久ら三兄弟と従者たちは、毛利方によって幽閉されることが決まります。
鹿之介は随従を願い出ますが許されず、出雲大社で主君と別れたとか。縁結びの神社が今生の別れの場所になるとは、何とも皮肉な話ですね……。

その後、山中鹿之介は「尼子家再興」に生涯を懸けることを誓います。
泣く泣く主人と別れたからこそ、何が何でも主家を再興させねば! と思ったのでしょうね。

二年ほど足取りがはっきりしない時期もあるのですが、永禄十一年(1568年)から本格的にお家再興のため動き出します。

まず、他の尼子旧臣たちとともに、京都で僧侶になっていた尼子誠久(勝久の祖父・政久の弟)の遺児・勝久を還俗させて、旗頭にしました。
さらには各地の尼子遺臣らを集め、密かにお家再興のチャンスを窺います。

毛利家が九州の大友家と戦うために中国地方を留守にしたため、頃合いを見て、出雲へと侵攻しました。

 

再興軍は瞬く間に拡大し、ついには6,000人超え!

このときは、かつての敵だった山名祐豊の支援を受けていたといいます。
祐豊もまた毛利家に圧されていたので、「敵の敵は味方」理論で味方したのだとか。
織田信長につつかれたため、大々的な支援はできなかったようですが。

やはり旧主ということもあってか、鹿之介をはじめとした尼子再興軍はあれよあれよという間に3,000人ほどの規模に拡大。
各地で勝利を重ねて勢力を強め、かつての本拠・月山富田城奪還にかかります。

以前やられたのと同じように兵糧攻めを仕掛け、一時は城内の毛利軍から投降者が出るほどでした。
山中鹿之介は石見方面でも多くの城を攻略し、再興軍を6,000人ほどに拡大しています。

これに刺激されてか、同じく滅びていた大内家の旧臣たちも、お家再興のため周防(現・山口県)で活動を始めました。

この二カ国での動きを受けて、元就は「今は九州に勢力を伸ばす段階ではない」と判断。
毛利輝元・吉川元春小早川隆景らに大内再興軍への対処を命じ、封じ込みに成功します。

毛利家を支え勇将として名高い吉川元春/wikipediaより引用

 

吉川元春に捕まってしまう><; しかし脱出♪

その後、毛利軍は、鹿之介ら尼子再興軍の鎮圧に向け、出雲へやってきました。

まだ月山富田城を攻略できていなかった尼子再興軍は、布部山(現・島根県安来市)で毛利軍を追い返そうとしたものの、あえなく敗北。
月山富田城へ毛利軍が加勢してしまい、攻略が余計に難しくなってしまいます。

命の懸かった戦場で、旗色が悪くなれば、テンションが下がるのがお決まり。
この影響で、尼子再興軍は下火になっていきます。

しかし、絶望的な状況でもありませんでした。

毛利では、絶対的存在・元就の死期が近づきつつあり、毛利軍の一部が撤退したため、まだまだ付け入る余地があったのです。
実際、月山富田城の攻略こそ成功しませんでしたが、島根半島の各所を制圧し、海運ルートを確保しています。

とはいえ、です。
水軍と言えば毛利とばかりに、同軍が水軍の増派を行うと、形勢は再び逆転。
尼子再興軍の拠点が次々と落とされ、尼子勝久は隠岐へ逃れ、鹿之介はあろうことか吉川元春に捕えられてしまうのでした。

しかし、鹿之介は一度失敗したくらいでは諦めません。

元春の隙を突いて脱出し、勝久の後を追いかけて隠岐で潜伏。
しばらくしてからて但馬(現・兵庫県北部)に渡り、協力してくれそうな武将と連絡を取って、再起の機会を伺います。

 

わずか1000の兵で鳥取城を攻め落としノリノリ!からの~

元就が亡くなって二年ほどだった元亀四年(1573年)、鹿之介は再び動き出しました。

但馬から因幡(現・鳥取県東部)へ攻め込み、桐山城(現・鳥取県岩美郡)を攻略して拠点にして、再び月山富田城を目指すのです。

このときも鹿之介以下、尼子再興軍の士気は非常に高く、約1000人の攻撃兵で、5000人が籠もる鳥取城を攻略しました。
しかも、わずか2ヶ月程度というのですから驚きです。

ただし、その後、毛利軍に鳥取城を奪い返されたり、味方を調略されて勢力を弱めたりして、一筋縄では行かなかったのですが……まぁ、相手は百戦錬磨の毛利ですしね。

というか根本的に、鹿之介の言動を見ている限り、長期的な視野が欠けているような気がしちゃいまして……。

事が起きてからの動きはとても早いのですが、このときも鳥取城を奪い返されてから柴田勝家に連絡を取ったりしています。
どうせなら早いうちに(毛利家とぶつかりあう)織田家や大友家を味方につけておけば、最初からもう少し良い状況を作れたんじゃないかと。

地勢については鹿之介たちのほうが詳しかったでしょうけれども、兵数で上回るのはほぼ不可能なわけですし……せめて戦略でなんとかしないといけませんよね。

中国地方での協力者は、情勢の変化などにより毛利家に滅ぼされたり、降伏したりして、ますます尼子再興軍は孤立化していきます。

こうして、二度目の再興運動も天正四年(1576年)5月には頓挫してしまいました。
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