アンナ・ヤギエロ/Wikipediaより引用

欧州 その日、歴史が動いた

ヤギェウォ家とハプスブルク家の二重結婚〜両親の仲は子の命に影響する?

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1503年(日本では戦国時代・文亀三年)7月23日は、アンナ・ヤギエロという女性が誕生した日です。

ハンガリーとボヘミアの王様だったヤギェウォ家ウラースロー2世の長女で……。

といっても、よくわからん単語が並び続けるのもどうかと思いますので、この記事では「中央ヨーロッパあたりのお姫様」くらいの認識でもいいかと。

 

お互いの一族を“二組”で結婚させて、同盟の証に

この頃、ヤギェウォ家とハプスブルク家では
「お互いの一族を“二組”で結婚させて、同盟の証にしましょう」
という話が出ていました。

二組のうち、片方の組み合わせがヤギェウォ家のアンナとその夫・フェルディナント1世。

フェルディナント1世/Wikipediaより引用

もう一方がアンナの弟・ラヨシュ2世とフェルディナント1世の妹・マリアの組み合わせで、文字通り両家の娘・息子による二重結婚でした。

あらためて図式化しておきますと、こんな感じです。

【一組目】
(ヤ家)・アンナ
(ハ家)・フェルディナント1世

【二組目】
(ヤ家)・ラヨシュ2世
(ハ家)・マリア

ラヨシュ2世は、父からハンガリー王とボヘミア王を継ぎました。

が、20歳の若さで戦死という悲劇に見舞われます。
王様になったのも10歳のときでしたし、帝王学が身についていなかったのか、若さゆえに逝ってしまったのでしょうか。

ラヨシュ2世には子供がいなかったため、義兄であるフェルディナント1世がハンガリー王とボヘミア王を継ぐことになります。

 

仲睦まじきアンナたち 四男十一女の子宝に恵まれる

フェルディナント1世は実家のハプスブルク家からドイツ王に任じられた後、神聖ローマ皇帝を兼ねました。

三ヶ国の君主となると多忙を極めますが、アンナとの夫婦仲は良好で、四男十一女(!)という子沢山一家となります。
一人の女性の出産数としてはかなりのものですよね。

結婚がマリア18歳のときで、最初の出産が23歳だったので、身体が出来上がった状態で初産を迎えられたのが良かったのかもしれません。
出産は若いほうがいいとはいわれますが、若すぎても難産などで母子ともに危険な状態になることがありますからね。

アンナは小柄な美女だったらしいので、フェルディナント1世は家庭で癒されていたのでしょうか。
ハプスブルク家の多産の先駆けともいわれる彼女ですが、もう一つ注目したい点があります。

実はアンナが産んだ15人の子供のうち、幼少期に亡くなったのは2人だけ。
60~70歳まで長生きした人も複数いました。
多産系でも丈夫な子供が産まれるとは限りませんが、これは何を意味しているのでしょう?

他の時代や国での多産例と比べてみましょうか。

 

徳川家斉は55人 家慶は27人 いくらなんでも多すぎる

日本の戦国時代で、正室が多産だった家として有名なところで、
前田利家&まつ「二男九女」
・伊達晴宗&久保姫「六男五女」
がおりますね。

ヨーロッパではヴィクトリア女王と王配アルバートの間に四男五女が誕生した、というのが多産かつ正式な夫婦として突出した記録です。

そして、すべての家に共通するのが
「夫婦仲が良好だった」
「夭折した人物はごくわずか」
の二点。
つまり、乳幼児の生存率の高さと両親の夫婦仲は、かなり密接に関係しているのではないでしょうか。

対比として参考となりそうなのが、江戸時代後期の将軍とその子供たちです。

最も凄まじかったのが江戸幕府十一代将軍・徳川家斉
彼には正室のほか40人もの側室がおり、計55人もの子供をもうけましたが、そのうち成人したのは半分程度で、うち4人は流産でした。

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家斉の息子である十二代将軍・徳川家慶も、同じく側室が15人ほどいたとされ、計27人もの子供を得ましたが、成人したのは十三代・徳川家定だけです。

家斉と家慶の側室における子供の数は単純計算一人あたり1~2人になり、そう多くはありません。

にもかかわらず、この死亡率の高さ。
「利家・まつ」や「晴宗・久保姫」と比べたら、そりゃあ酷いもんで、やはりそこには「親の愛情の有無」が子の成長に著しく影響を与えるのではないか?という関連性を考えてしまいます。

まぁ、側室の数が凄まじいからと言って、正妻と仲が悪いとも限らないし、親として子供に対する愛情が希薄とも限りません。

しかし、子供から見たら、「自分は父親にとって何十分の1なんだ」「価値がない?」となんとなく心細いキモチになってしまう可能性は否めないですよね。

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家慶の子供で家定だけが34歳まで生きられた

なお、家斉と家慶は、お世辞にも良好な親子関係とはいえません。
信仰や政治的関係で対立していたといわれており、家斉の家臣が家慶の息子・家定の毒殺を図っている、という噂もあったとか。

他ならぬ家慶自身も、病弱で障害のあった家定ではなく、正室の甥にあたる慶喜を将軍にしたがっていたといいます。
最初のうちは家定の病気を治そうと、今でいうリハビリをやらせていたそうですが……。
そう考えると家慶も家定に対する愛情がなかったワケじゃなさそうですよね。

九代将軍・徳川家重も身体に障害か持病があったにもかかわらず、将軍という重責を負わされていましたから、家慶は「自分の子供にはそんな苦労をさせたくない」と思った……なんて、話を綺麗にしすぎですかね。
しかし、家慶の子供で家定だけが34歳まで生きられたのは事実です。

家慶の場合、他の実子が早逝してしまったから、というのもありそうですが、それならそれで慶喜を家定の養子に指名する遺言書でも書いておけばいいわけで。

愛情の有無は記録に残りにくいものです。
と同時に親子間・家族間でもなかなか伝えにくいものです。

ただ、愛が子供の成長に影響するのは間違いなさそうで……というなんだか当たり前な結論へと進んでしまいました。

徳川家慶/Wikipediaより引用

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
アンナ・ヤギエロ/Wikipedia
フェルディナント1世_(神聖ローマ皇帝)/Wikipedia

 



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