足利義教/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義教48年の生涯をスッキリ解説!クジ引き将軍に正しい評価を今こそ

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古巣の延暦寺にも容赦はしない!

他に特徴的な点としては、
「大覚寺統(旧南朝=後南朝)の皇族の断絶を図った」
という点が挙げられます。

後南朝の問題もありますが、義教も上記のような経緯で将軍になっているだけに、
「俺の目の黒いうちは同じ問題を起こさせない」
と思っていたのかもしれません。

後南朝の血筋としてはもう少し続いていますが、完全に歴史の表舞台からは消えてしまっています。
義教時代の苛烈さをやり過ごそうとしているうちに、実力がなくなってしまったのでしょうね……。

また義教は、古巣の比叡山延暦寺にも容赦しませんでした。

延暦寺根本中堂

院政の代名詞である白河天皇の有名な発言。

「賀茂川の水、賽の目、山法師」
でも知られる通り、延暦寺は何百年も「この神輿が目に入らぬか!」で好き勝手やってきた組織です。

それを内側からずっと見ていますから、自身が将軍になれば、「僧侶は僧侶らしくしろ!」と思い直したのかもしれません。

具体的には、将軍に就いてすぐ、弟・足利義承を天台座主にし、延暦寺をおとなしくさせようとしたのです。

が、逆に「幕府の役人が不正してるんですけどー」(意訳)と訴訟を起こされてしまいます。

ここで幕府は、折れる形で問題解決に向かいますが、延暦寺は「なんだ、今度の将軍もチョロいじゃんw つーか元々俺らの頭だった人だしwww」(超訳)とばかりに暴挙に出ます。

なんと、訴訟に同調しなかった別のお寺を焼き討ちしたのです。

 

呪詛をかけられ大激怒 兵糧攻めを命じる

現代の我々から見てもドン引きのこの所業。
義教が怒らないわけがありません。

即座に自ら兵を率いて比叡山を包囲します。
トップがフットワーク軽いと、組織って引き締まるんですよね。

さすがにそこまでされると思っていなかった延暦寺は、このときは引き下がりました。

が、その翌年。
今度は「延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と密かに結び、義教に呪詛をかけている」という噂が流れます。

当然今度も、義教は大激怒。
近江の守護である六角氏と京極氏に「比叡山を包囲して兵糧攻めにしろ!」と命じます。

さらに放火までしたため、今度も延暦寺が降伏を申し入れてきました。

現代ならば「呪いとかw」と一笑に付されておしまいですが、呪詛の力がガチモンだと信じられていた時代ですから、義教はそう簡単に許すつもりはありません。

しかし、この対立が長引くことを恐れた管領・細川持之をはじめとした五人が「延暦寺と和平を結んでくださらないのなら、私達は京の自邸を焼いて本国に戻らせていただきます」と説得にかかります。

いくら義教でも、重臣にそっぽを向かれては仕事をやっていけません。
仕方がないので、このときは義教が折れ、和睦が成立しました。

ところが、です。
これでは終わらないのです。

 

延暦寺からの使者を呼び出して、斬!

約二ヶ月後、義教は突如、和睦の際に延暦寺からの使節を務めた四人を呼び出しました。

イヤな予感がした彼らはなかなか姿を見せませんでしたが、管領の名前で誓紙が出され、やむなく将軍御所へやってきます。

悪寒は見事に的中しました。
四人は見せしめとして首をはねられてしまうのです( ̄人 ̄)

当然、延暦寺側は激高しました。
自らお堂に火をつけ、24人の山徒(延暦寺の雑用兼僧兵)が焼身自殺したといいます( ̄人 ̄)(二回目)

延暦寺と京の中心部は、直線距離でほんの数km。

黒煙は京童たちの目にも写り、町は騒然となりました。
義教はこれに対し、「比叡山の話したヤツは処刑な^^」(意訳)とお触れを出して黙らせています。

既に「義教は有言実行の人である」ということが実証されている上でこのお達し。
怖いってレベルじゃねー!

その後、比叡山では親幕派の僧侶が新たに任命され、何とかこれ以上の事態は防げました。
焼けたお堂も再建されています。

この「苛烈な手段を選ばない割に、後始末もちゃんとする」あたりがかえって恐ろしいんですよね……gkbr。

しかし義教に降りかかる苦難は止みません。
今度は関東で勃発します。

 

源氏お得意の内輪揉めで関東甲信越がヤバイ!

次なる争いは【永享の乱】です。
鎌倉公方・足利持氏の態度がいよいよ見過ごせないものとなったのです。

とんでもなくややこしい話なので、詳細は後日あらためて。
無理やりまとめておきますと

・足利持氏は自分が六代将軍になれると思い込んでいたのになれなかったのでグレた
・関東管領(関東公方の相方)・上杉憲実が苦言を呈するも無視
・持氏の反抗的な態度が義教にバレて討伐の勅令が出る
・持氏が負けて剃髪・降伏するも、義教が許さず、持氏一族を処刑

……という感じです。

この後、関東には「○○公方」が乱立してさらにめんどくさくなり、持氏の遺児を巡るゴタゴタが始まり、さらには戦国時代にもつれ込んで、上杉謙信や武田信玄なども関わってくることになります。

むちゃくちゃ強引に一行でまとめると、
「源氏お得意の内輪揉めで関東甲信越がヤバイ!」
ってところでしょうか。

 

次々に勃発するトラブル 弟までもが挙兵して

ちなみにこの間、後南朝や大和の有力国人との間で
【大和永享の乱】
という戦も起きています。

こちらは、南北朝合一の前から有力国人だった越智氏(南朝方)と筒井氏(北朝方)の争いが続いていたことが原因。
一度は奈良の興福寺と幕府が仲裁に入ったものの、うまく片が付かずに義教がブチ切れ、力尽くでの解決を目指します。

それでも綺麗には終わらず、加えて義教の弟である義昭(ぎしょう・”よしあき”ではない)が、門跡を務めていたお寺から逃げ出して挙兵するというワケわかめな展開を迎えます。

実際、大和の国人や後南朝と結託してカオスは加速し、解決までに10年の月日を要するのでした。

義昭

かたや親戚のワガママ。
かたや幕府からごく近所の争い。
ついでにいうと、同時期に「正長の土一揆」なども起きています。これもまた後日扱いますね。

こんな短期間にあっちこっちで暴れる輩が出てきていたのでは、義教でなくても「皆まとめて消し飛べ!!(#゚Д゚)ゴルァ!!」と思いたくなりますね。

義教はこれらの討伐をする際、天皇から「治罰綸旨」を貰い受けていました。

書いて字のごとく、
「アイツらは世を乱すという罪を犯したので、退治するために天皇のお墨付きをもらう」
ということです。

相手を「朝敵」=「国家の敵」と天皇から指名してもらうことで、幕府側に大義名分ができるわけですね。
後に、戊辰戦争の際に明治政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、徳川慶喜が朝敵となって「ひええ」となったアレを、室町幕府側がやったわけです。

 

「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」

……とまあ、こんな感じで義教は大義名分を整えつつ、幕府を揺るがしかねない物事を一つ一つ迅速に潰していこうとしておりました
もともと「征夷大将軍」というのは「朝廷に従わないヤツを討伐する」役職ですから、その職務に忠実だったともいえます。

しかし、彼の場合、それが日常生活にも及んだことが大問題でした。

「料理がまずい」
「酌の仕方が下手」
「儀式の最中に笑顔になった」
などなど、ほんの些細なことでクビになったり殴られたりした人が大勢いたのです。

しかも話の出所のわからない言い伝えや、後世に作られた暴君のテンプレを当てはめたものではなく、同じ時代の公家の日記などに書かれているのですから、事実とみなさざるを得ません。

当時の天皇の父である伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記『看聞(かんもん)日記』には
「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」
とまで書かれています。

この日記、他の記事はほとんど琵琶の練習や近しい人の訃報などの穏やかなものなので、余計にこの記述が際立つんですよね……。
何だか義教が「名前を言ってはいけないあの人」のようです。まあ、この経緯では無理もありませんが。

 

赤松氏に呼び出され暗殺 誰も味方はいなかった

義教の立場になって考えてみると、全ては「将軍の権威を高めることで、皇室の争いや世の中を安定させる」ためでした。

ただ、そのサジ加減に問題があったのでしょう。
もともとが天台宗のトップである天台座主まで務めた人だけに、他人にも厳しすを求め過ぎたのかもしれません。

そういう意味では、清濁併せ呑むような器量が問われる将軍よりも、宗旨を守るのが第一の天台座主でいたほうが良かったかもしれません。
案外、義教がずっと天台座主を務めていたら、延暦寺も引き締まってまともになっていたりして。

上は当時の天皇の父、下は京童までに恐れられた義教。
身近な室町幕府の重臣たちともなれば、さらに緊張感を強いられるものでした。

それが極まったのが、室町幕府・重臣の一角、赤松氏でしょう。

当時、幕府の長老格になっていた赤松満祐は義教と不仲で、疑心暗鬼に陥った彼が義教を自宅に招いて討ってしまったのです。
享年48。

他の守護大名も同席していたのですが、将軍に味方する者はほぼ皆無。
抵抗した者も即死もしくは後日死亡という惨状でした。

義教がドギツイ人であったことは間違いないありません。
しかし、真面目に将軍をやっていたのもまた事実です。

もうちょっと優しい面をうかがわせるエピソードが見つかれば、いい感じに人気が出そうなんですけどね。
信長も、庶民に優しくしていた逸話が広く知られるようになってからイメージが変わりましたし。

案外、大河向きな人という感じもしますね。

室町時代って今まであんまり題材になってないですし、いつまでも戦国と幕末の反復横跳びもできないでしょう。

問題は、現状であまりにも人気がないこと。
しかし、素性を知られてないということでもあり、意外と人気が爆発するかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典足利義教
足利義教/wikipedia

 



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